学習院大学アメリカンフットボール部OB、OG会 Since 1953

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学習院大学アメリカンフットボール部50年史について

1993年(平成5年)の創部40周年を記念して、学習院大学アメリカンフットボール部の40年史が40年史編集委員により冊子版として作られました。
その後2003年(平成15年)の創部50周年にあたり、1995年/平成7年度分までがデジタル版として追加となっております。


創立四十周年に寄せて

(1953/昭和28年度)

OB会名誉会長 内山 寿郎(1954/昭和29年 卒)

 去る梅雨の一日、拙宅へ田代隆君(昭和三十二年卒)須恵厚君(昭和三十三年卒)の両君が訪ねて来られた。当日夜、西宮スタジアムで行なわれる平成ボウルの観戦に来たと云う。大変懐かしい顔ぶれであり、早速水割りを飲み乍ら昔話に花を咲かせた。その折両君から来年、即ち一九九三年は学習院大学アメリカンフットボール部設立四十年に当るという話しを聞き改めて星霜過ぎ行くの早きことを思った。

 一九五三年(昭和二十八年)と云へばサンフランシスコ平和条約が前年の一九五二年に締結され、太平洋戦争敗戦後の暗い世相が漸く消えようとしていた時代であった。一方、四年に及ぶ朝鮮動乱が終結し、これによる特需景気も沈下した折から学制改革による新制大学の第一期卒業と旧制大学の最後の卒業とが重複し空前の就職難をもたらした年であった。私が四年の時である。当時、関東の大学でアメリカンフットボール部を有していたところは、慶応、早稲田、立教、法政、明治、日大の六大学のみであった。後にこれに本学が加わり関東七大学となるのだが、それは数年後のことであ る。

 部設立の核となったのは飯田亮君(昭和三十一年卒)、故山田耕司君達であった。当時は大学と云っても未だ旧制高校の延長の如き規模であり、学生の数も少なく、またアメリカンフットボールの知名度も現在とは比較にならぬ程低く、部員集めが思うようにいかぬ状態であり基礎練習でスクリメージを組むのも片側だけであった。

 当時私の友人が多かった慶大の日吉グランドに行き、古い防具を分けてもらって来て用いたりしていた。その年の夏には新潟県の赤倉で第一回合宿練習を実施した。対外試合が出来る様になったのは私の卒業後のことで飯田亮君が主将時代在日米軍の子弟のアメリカンハイスクールとの試合が行われた。その後昭和三十一年、前記の関東大学リーグに加盟、リーグ戦に参加できるようになったものの、今で云えば部新設間もない大学がいきなり一部のAクラスのリーグに加わったようなものであるから戦績は残念乍ら毎年最下位を脱却出来なかった。その後我国におけるアメリカンフット ボールの発展にともない部を創設する大学が漸増し、関東のリーグも幾度か編成替を繰返し現在の如く一部から、四部迄、各部数ブロックを以って構成し、実に七十有数校の多きを数える迄に繁栄致したことは真に慶賀にたえない。又我が学習院大学も全輔仁会運動部中最多の百名を越す部員を有するチームに育ってくれたことは、四十年間前目白グランドで時には飯田君、故山田君と私の三人のみでブロックやパスの練習に汗を流してきた者にとって誠に感慨深いものがある。

 部創立四十周年を一つの大事な節目としてOB諸氏には飯田会長を中心にして益々結束を密にされ現役チームの強化発展に寄与されることを切望する。

 また、現役部員諸君には当学アメリカンフットボール部の古い伝統を改めて認識され、今後共誇りをもって精進されんことを強く希望する。

 四十周年に当り一言書けとのOB会よりの御申入れによりこれを記す。


部創立とOB会の発足

特別寄稿 ―連盟理事・審判員等―

(1953/昭和28年度)

OB会名誉会長 内山 寿郎(1954/昭和29年 卒)

 本学にアメリカンフットボールのチーム作りが始まったのは、昭和二十七年の初夏のことであります。当時は戦後の学制改革が施行された直後であり、大学とは云え本学はまだ旧制高校の延長のような状態で、学生数も僅々数百名というものでありました。チーム作り中心となったのは、三年生の私と、二年生の内藤一弥君、一年生の飯田亮君、山田耕司君(故人)、マネージャーは後藤達郎君でありました。当時の関東学生リーグは、慶応、早稲田、立教、法政、明治、日本大の六大学のみでありました。 私の友人が多かった慶応大学のアメリカンフットボール部の練習グラウンドがある日吉行き、古い防具類の余ったものを分けてもらい、修理して練習に使用したのも懐かしい想い出であります。勿論まだリーグ加盟も出来ず、部員の数も少ないこともあり、基礎練習のみに励み、スクリメイジを組むのも片側のみという状態でした。それでも昭和二十八年には大学より同好会として認められ、新潟県妙高高原村赤倉温泉で第一回の夏期合宿練習を実施することが出来ました。

 とにかく当時は、私達でチーム充実の萌芽たらんと真摯な考えでおりました。私の卒業後、飯田君の主将時代に漸く在日米軍子弟のアメリカンハイスクールのチームと試合ができる迄になったのであります。

私も卒業後、対外試合に出場したり、合宿に参加したり、社会人になってからもチームとの付き合いを続けておりました。

 何しろ私が最上級生で、一人だけだったので、昭和二十九年からOBとはなったものの、一人でOB会でもありませんでした。そのため昭和三十一年の卒業生を加えて「複数」のOBによるせいしきなOB会が発足したのは昭和三十一年の春のことであります。また昭和三十一年に関東学生リーグへの加盟が実現致しますと、OB会から連盟理事と、オフィシャル審判団へ審判員を出さねばなりません。何しろOBの絶対数が少ないものですから、私などは代表理事をずいぶん長い間やらされたものでした。審判員の方で記憶に残っております古いところでは、中島健君(昭和三十一年卒)、田代隆君(昭和三十二年卒)、それからずっと後になって久保田正就君(昭和四十一年卒)、池内 茂君(昭和四十九年卒)等がおられます。

(アメリカンフットボール部三十年史、内山OB会長挨拶文要旨)


創部2年目について

(1954/昭和29年度)

下郷 久喜(1958/昭和33年 卒)

 40年史編集委員から1954年度の執筆者がいない。ついては、小生が昭和29年度最初から入部したのであるから、何か書けとの要請があった。40にもなる昔のことであり、覚えているか不安はあるが、懐かしさから先輩諸氏を差し置いてペンを取った次第である。

 昭和29年といえば、教育制度のうえでも占領軍のわが国に対する指導の名残である制度改革が終了し、4年生まで全員が新制大学として入学した学生になった年である。この年に入学した我々が新宿の「ミンクス」という喫茶店で、 飯田亮先輩や後藤達郎先輩に誘われてアメリカンフットボール部に入部したのは、秋の新学期が始まる9月である。当時フットボールといえば、映画館のニュース番組で見るだけの馴染みのないものであった。部室に行ってみると、戦前の馬小屋を改造した馬糞の匂いが残る汚い部屋に、数個のボールと壊れかかった防具が二、三転がっているだけの侘しいものであり、入部を躊躇したが、熱心な勧誘とアメリカに対する憧れで入部を決めたように記憶している。

 同期で入部したのは、伊地知、益子、川崎、水野(順)、水野(廉)、西山、須恵、滝、赤川(故人)に小生の10名である。 飯田、山田(故人)、中島、高野、田代、の諸先輩にわれわれ新入部員が加わり、やっと試合のできる人員が揃った。10月になり慶応大学の佐藤さんの紹介で、パディユ大のセンターで活躍されたT・ブラック氏がコーチとしてみえられるようになり、当時アメリカカレッジフットボール界に象徴として君臨していたノートルダムを目指そうと熱心な指導を受けた。そのうえ、中古ではあったが、約百組の防具とユニフォームを横須賀軍基地より払い下げの労も取っていただいた。

 防具は揃ったが、何れも大きく須恵厚君の使ったヘルメットは、ジンギスカンの兜のような古典的なものであったり、ヘルメットが大きすぎてタックルする度に目が隠れて見えなくなる伊地知寛君等話題が豊富であった。 それでもなんとか本格的にタックルやブロック練習が出来るようになり、この年は終わった。次の年の昭和30年に、伊豆下多賀での春合同練習を経て初戦の日大戦を迎えることとなる。

 不惑の年を迎えたわが部の今日があるのは、内山名誉会長をはじめ創部期の諸先輩のご苦労に加え、昭和31年に連盟に加入が認められて以来の先輩OBの努力なくして存在しない。現役諸君は40年史に寄せられたOBの寄稿文より、OB会の存在や伝統が何であるかを認識して、次の飛躍に挑戦してもらいたい。

 最後に先輩OBに感謝するとともに、今日までわが部を支えてきた指導人並びにOB諸氏に改めて御礼を申し上げます。


昭和30年ごろの思い出

(1955/昭和30年度)

特別寄稿 山村 良男(1958/昭和33年 卒)

 アメリカンフットボール部が創部四十周年を迎えられたとのこと、誠におめでとう御座居ます。元ボート部の所属で、部外者である私が、記念誌の筆をとる御氏名に与り、戸惑いを禁じ得ませんが、あまりにも当時が懐かしく、厚かましさを承知でお受けすることにしました。

 今から思えば創部三年目の昭和三十年、私が大学二年で、ボート部がオフシーズンの時期でした。 学習院中等科からの友人、カッパこと、伊地知君に誘われたのが、最初であったと思います。尤も、カッパの友人は私の友、私の友はカッパの友人という状況でしたから、或いは他の誰かであったかも知れません。兎に角、試合の数日前、人数が足りないから手伝えとのことでした。

 最初に紹介されたのが、監督兼コーチのミスター・ブラックでした。アメリカ人としては小柄な部類であったと思いますが、 米軍エアフォースの士官であり、とても威厳がありました。当時は昭和二十八年に朝鮮戦争が終結し、軍需景気の恩恵で生活状態も多少は改善され、フットボールや、ジャズ等、素晴らしいアメリカ文化の一端が進駐軍によって持ち込まれ、日本にも急速に浸透し始めていました。しかし、その頃絶大な人気があった漫画の主人公、ダックウッド家の大型電気冷蔵庫や、厚さ十糎位はある、中身の大きくはみ出したサンドイッチ等、日本人には別世界の豊かさや贅沢さを、見せつけられて圧倒されていた我々は、アメリカ人に対する、ある種のコンプレックスを拭えないのも事実でした。

 そのミスター・ブラックによる最初の練習の思い出は、脳震盪寸前の激痛です。選手を二手に分けてのタックルの練習の時でした。威厳あるミスター・ブラックの号令のもと、渾身の力を振り絞って相手にぶつかったのです。日頃はオールと水が相手のボート部員ですから、常に全力を傾注する事が要求されています。「ボートは敢闘精神で漕ぐものである。敢闘精神とは全身の力を使いきった後に、尚、漕ぎぬく精神である。」と、叩き込まれてもいます。私より十数糎上背のある、ミスター・オルテガこと、髭の高野先輩が見事にふっ飛んだのを見て、ミスター・ブラックは「ヤマムラ、ベリー グッド」とおおいに誉めてくれたものです。

 ところが、その後が大変でした。オルテガ氏の髭先は怒りでブルブル震えている感じでした。無理もありません。 新人を相手にしての優しいこころ配りを仇でお返ししたのですから。「ガッツン」。目から火花が飛び散ると同時に、大きな衝撃が背骨を伝わって頭のテッペンへ抜けていきました。頭が繋がっていることを実感した、始めての経験でした。

 最初の試合は、成僧にあるアメリカン・ハイスクールとのものでした。与えられたポジションは、タックルであったと思います。グランドの隅には救急車が待機し、対峙した相手のラインは高校生のくせに、見上げる様な大男ばかりです。 特に目立ったのは、センター伊地知の前にノーズガードをつけて立ちはだかった、インディアン系の精悍な顔つきをした選手です。 映画の西部劇の人気が極めて高く、「インディアン嘘ツカナイ。インディアン強クテ、コワイモノナイ。」の時代ですから、尚更です。案の定、彼は敵ながら天晴れな活躍ぶりで、我がチームを随分悩ます存在でした。ところが、次か、その次の試合の時に姿をみせないので聞きますと、先週の試合で首の骨を折って死んだとのことで、愕然とさせられたものでした。それでも、相手は大男でもハイスクールの故か、腰は弱く、我がタックルに、地響きを立てて倒れる様が壮快でした。試合は奮戦空しく負けましたが、我軍の頼みの綱、 名フルバック飯田先輩の鮮やかな活躍ぶりは、今でも目に浮かぶ程です。

 横浜のハイスクールとの試合の時でしたか、例によって突進してくる大男にタックルをかけて見事に倒したのはよかったのですが、レフリーが恐ろしい顔をして、 私を指さし乍ら十五ヤードの罰退を命じています。実は、オフェンスの時にはブロックのみしか行ってはならないルールを、その時まで知らなかったのです。試合が終わると、「ナイス ゲーム」「ナイス ゲーム」と互いに挨拶を交わして分かれますが、その後の情景は彼我の差の極めて大きなものでした。彼らの側は、応援席から一斉に飛び出してきたガールフレンドたちの嬌声が充満し、 次の瞬間、夫々のお目当ての選手との間で固い抱擁とキッスが交わされます。我軍はシモこと下郷君や、カッパの粋がる姿は合っても、嬌声どころか、応援団の姿は皆無の状況でした。

 飯田先輩を始め、レンペイこと水野君、ジョローこと滝君等、出る処に出れば大モテする好男子が溢れていたにも拘わらず、淋しさを味あわされていたのですから、当時の日本では、未だ、フットボールが大衆化するには程遠かったと云うことであったと思います。

 ついでに、その他の選手の思い出を書かせて戴けば、ホーチャンこと、須恵君(私は本気でベトナム留学生と信じていました。)は、日本人離れしたネバッこい好プレーを見せていました。ヂュンスケこともう一人の水野君は、スモール飯田とも云える、典型的なスポーツマンタイプで、頗る華麗なプレーで大活躍をしていましたが、その姿以上に思い出すのは、 水野家で母上の手料理で御馳走になった鯨のステーキのおいしかったことです。シモはチェロを奏でている時の優雅な姿にはどうしても重ならない、果敢なプレーを見せていました。

 カッパの説で、アメリカ人プレーヤーの如く力を発揮するには、一日当たり三千六百カロリーの栄養を摂取する必要があるとのことで、中身不明(大量のニンニク入りだけは確実)の安いギョーザを、ゲップが出るまで食べ歩いたのも思い出されます。尤も、食い飽きるより以前に、財政事情で永続きはしませんでしたが。

 いずれにしましても、ボートですと、クルーから最大の力を引き出す方法として、二ヶ月程度の合宿を組み、最初は徹底したハードトレーニングで体力をつけると共に、オーバーワーク的にコンディションを最低まで落として、心身共にばらばらの状態にし、その後の調整によってこれを組み立て、全員が完全に一体化したものを作り出します。各選手が大いにばらばらになればなるほど、逆にその後の結束が強固になるとの考え方で、いわば、前時代的な面が多分にあります。

 一方、フットボールは、多様なフォーメーションを軸に、かなり科学的要素を重視して戦うと云うことで、私にとっては、全く新感覚の驚異的なスポーツでした。今でも、私の様な部外者を含めて、当時の仲間が大変仲良しで居られるのは、歴史が浅いにも拘わらず素晴らしく優れたスポーツを、共に楽しんだと云う要素が大きいとは思いますが、やはり、当時の日本では未だ白紙に絵を書くが如く、新しいものを創出する感激を味わえたからだと思います。

 改めて創部四十周年への意義を感ずると共に、その最初の段階で手伝いをさせて戴けた幸運を感謝し、フットボール部の益々の御発展を心より祈念して、筆を置かせて戴きます。


「甲子園の空はブルーとレッド」の夢

(1956/昭和31年度)

田代 隆(1957/昭和32年 卒)

 関西に住むようになって三十年、殆どOB会等に出席する機会もなく、また母校の試合結果等をOB会の連絡で見るだけであったので、先日須恵君の連絡で創部以来四十年になると聞き、もうそんなになるのかとびっくりしました。

 いろいろな事がなつかしく思い出されます。私が二十八年入学した当時は、内山、飯田、山田先輩外数人で部を創るべく努力をされていました。私も都立西校でのタッチフットボールの経験から、フットボールに対して興味を持っていたので入部しました。当然のことながら、当時はゲームも 出来ず基礎練習にあけ暮れる毎日でした。その後、下郷、西山、須恵、伊知地、水野、益子君等後 輩が入部しゲームが出来る状況となり、その間極東空軍の選手がコーチに来たりしていました。昭和二十九年十月に米人コーチT・ブラック氏のお骨折りにより、横須賀海軍基地から道具をもらいチ ームとしての形が出来て関東リーグ加盟にむけ、米軍基地内の高校との練習試合を通じ技術の向上をはかりました。私はクォーターバックとセーフティー(当時はオフェンス、ディフェンス両方を交代なしでプレイした)で、オフェンスフォーメーションのノートルダムボックス(シングルウイング)がなつかしく思い出されます。当時の皇太子殿下(現天皇)が渡欧・米の際にカルフォルニア大よりウィルソンのボールをもらってきて部に寄贈くださり、新しいボールが入手困難な時代でもあり、皆んなで喜んだものでした。

 チーム初試合は立教大学を北グラウンドに招いて行い、当然ですが〇-三十四で負け、皆緊張しており、ある選手は審判に注意されるまでヘルメットを逆さにかぶっているのを気づかなかったのも、忘れられない思い出です。そしてその試合で私が脳震盪でひっくりかえったのもなつかしい思いがします。その後連盟に加入、少ない人数での試合のやりくり、チケットの販売等、今の隆盛からみると夢の様です。また、加盟を記念して甲南大学との定期戦も開始され、関西にも友人ができるようになり、春の定期戦が楽しみになりました。卒業後はコーチを努め、初めて雨の中で青山学院大学に、確か八-〇で勝ったときの感激は、今でもはっきりと記憶に残っております。最初の大阪転勤から帰京後、一九六〇年から足掛け五年監督を仰せつかり後輩の指導にあたりました。この頃から大学の数も増え、リーグ戦も一部二部制となり、なかなか一部に上がるのは当時は困難でした。当時から、私としても早く一部に入り伝統あるチームと試合をするのが目標でした。後輩諸君も同じ目標の下で現在まで何代にも渡って努力を続けられている事と思います。

 数年前甲子園ボールの日大-関学戦のテレビを見ていた時、日大の篠竹監督が勝利インタビューで「甲子園の空はブルーとレッドが最もよく似合う」といっていたのが、私の印象に強く残っております。ブルーは我がチーム、レッドは甲南であり、甲子園は我々にも似合っていると思います。関西在住のOBとしては、春の定期戦だけでなく、秋にも甲南との甲子園でのチャンピオンゲームを見るのが夢です。後輩諸君に対し是非この夢をかなえてくれる様、引き続いての精進をお願いして、筆を置きたいと思います。学習院大学フットボール部の更なる発展を祈っております。


ノートルダムを目指して

(1957/昭和32年度)

須恵 厚

 前年度(昭和31年)連盟加入が認められた我が部は、初めての公式戦(関東学生アメリカンフットボールリーグ) 全敗という惨めな結果に終わった。4年生になった昭和32年、伊豆多賀での春合宿を無事終え、初戦は5月5日の2回目になる甲南大学との定期戦であった。この初めての関西遠征は、当日低気圧の中心が近畿地方を通過する中での雨中戦だった。前年は戦力も同じようで5分 (14対24)に戦えた相手であった甲南は、30人余と増えていて、思っても見なかった大敗(0対75)を喫した。その上、西宮競技場の粗い砂が雨のためユニフォーと体の間にしみ込み、すり傷が3週間も消えなかった痛い思い出が残っている。

 秋のシーズンにそなえ、8月に長野県野沢温泉で、部発足間もない成城大学と合同合宿を行った。そのときの成城大学のコーチで、立教大学優勝時のクォーターバックで今は亡き加藤さんの良きアドバイスは今でも忘られない。ご冥福を祈ります。秋季リーグの第1戦は、台風一過快晴の9月8日の後楽園競輪場での立教大学戦だった。翌日の日刊スポーツに よると、「40人余と豊富なメンバーを有する昨年2位の立大と交代メンバーが4人しかいない最下位の学習院大とでは 勝負にならなかった。立大は第1クォーターでQB藤田からRE角谷への見事なパスでのタッチダウンをはじめ、第2クォーターからは新人を起用して一方的に学習院大を押し捲り大量101点をあげ完封した。」と書かれている。

 第2戦は対早大(0対67)、第3戦(0対60)と無得点試合が続いたが、第4戦対明大戦では、ファーストダウン数では9対13と、試合内容に進歩の跡が見られるようになり、8対47と初得点を記録した。得点したのは1年生のHB藤田君と4年生のQB益子君(残念ながらファンブルによるセーフティー・タッチバックか?)と記憶している。対慶大(0対104)、対日大(0対103)と連敗が続き、最終戦の防衛大戦は、日刊スポーツによると「前日早大を圧倒した防大ライン陣は、ザルのような学習大ラインなどものともしない。2軍でスタートした防大は開始5分、学習大のキックオフボールを自陣25ヤードからフレッシュタッチダウンを1つ重ね、RH宮川がオフタックルに出てタッチダウンした。先取点をあげた防大は以後ベストメンバーを繰り出して、主将のRH長谷川、FB佐藤、LH杉野、RH西元(いずれも交代選手)らがつぎつぎとラインをついてタッチダウンを重ね、野村―西元、西元―石川のパスも織り混ぜて完全に学習大の息を根を止めた。学習大は後半8分FB須恵がキックオフリターンで70ヤードの独走を見せ辛うじてタッチダウンを返したのみ。昨年リーグ加盟以来連続テールエンドに終わった。」とある。スコアは6対69で大敗、最後まで公式戦は勝てなかった。しかし去年のリーグ戦では全得点が6点で終わったのに比べ、14点と倍増したのがせめてもの救いであった。

 また、夏の合宿を一緒にやった成城大学を文化祭に招いて交流戦を行い、14対6で部創立以来初めて勝利したことを特に付け加えておきたい。次に、どうしても忘れることの出来ない人に、昭和29年の10月から31年にかけて本場のフットボールのコーチを受けた、パディユ大名センターのT・ブラック氏がいる。

 T・ブラック氏が当時アメリカのカレッジフットボール界に象徴として君臨していたノートルダムを目指そうと言われ、我々が最初に手にしたフォーメーションは、踊り子のステップにヒントを得たというオールドTからボックス型へシフトす るノートルダムボックスフォーメーションである。ロックニ-ヘッドコーチ自身がピアノを弾きながら、シフトする4人の バックスにステップを教え込んだと言うこのフォーメーションは、リズム・タイミング・スピードの3つの要素があり、練習を重ねないとマスターが難しいフォーメーションであった。

 そのフォーメーションに挑戦した我々は、当時、日本で1番システムだけはすすんでいたのではなかったかと思う。しかし、システムだけでは勝てないのがフットボールであるということが学べた1年であった。


幻のタッチダウン 対日本大学

(1958/昭和33年度)

米本 満(1959/昭和34年 卒)

 この間須恵先輩から電話があり、学習院アメリカンフットボール部創部四十周年記念史への原稿依頼がありました。

 電話を置き三十四年前を思い起こすと、光陰矢のごとしそのままに、楽しかった。決して忘れる事など無かったはずの青春時代が忘却の彼方にあることを再認識し、書棚の奥から古いアルバムを取り出し、思い出をたどりながら筆をとった次第です。

 私が在学した昭和三十年から昭和三十四年の間我がアメリカンフットボール部は、関東八大学(日大、明大、立大、慶大、法大、早大、防大、学習大)リーグに属していました。我が部は部員も少なく、戦績もかんばしくなく、在部中に勝利の女神は一度も微笑んでくれなかったように記憶しております。

 昭和三十三年、小生四年生の夏の合宿は、我が郷里山形市で行いました。奥羽本線で十余時間かかって到着した面々を出迎えた山形では、アメリカンフットボールという競技を知る人も少なく、練習場に向かう選手達の防具をつけた異様ないでたちに皆驚き、物見高い市民は後についてきて練習を見物しておりました。今その時の写真を見てみますと参加した部員は十六名でした。主将の水野、センターで三年の西島以下杉立(故人)、平岡、島田、内田、都築、立岩、田中(水島)、本間、羽田野、大石、中谷、坂下、君達ではないかと思います。当時は防具も満足なものはなく、ヘルメットにはフェイスガードもついておらず、いつも顔中にアザを作っていた事が目に浮かびます。

 秋の関東八大学リーグ戦は、開会、閉会の式が神宮競技場で行われ、試合は神宮競技場、早大東伏見グラウンド、日大下高井戸グラウンド、慶大日吉グラウンド等で行われました。強豪日大との対戦でキックオフ後のファーストワンプレーで水野君の八十ヤード独走のタッチダウンがオフサイドによって取消されたのが思い出されます。部員数の少ない我がチームは、交代要員もままならず、一人の選手が全試合フル出場という有様でした。こんなことは今の百人からを越す部員諸君には考えられない事かと思います。しかし、美人の応援と向かい合う気強いファイトは他のどのチームからも負けておりませんでした。

 試合の後のコンパでは目白で飲んで盛り上がり、新宿に繰り出し我が物顔で大騒ぎした事、また甲南大学との定期戦では、芦屋の巨人軍常宿の竹園旅館に宿泊し、大阪飛田の繁華街を意気がって歩いたことなどが思い出されます。

 学習院大学アメリカンフットボール部今迄培ったよき伝統を守り益々繁栄を祈念しております。


アメリカンフットボール部と私

(1959/昭和34年度)

立岩 彰(1960/昭和35年 卒)

 アメリカンフットボール部OB会四十年史編集委員会より、一筆書けとの要請を受け今日は明日はと思っている中に、再度督促を受け漸く重いペンを取り上げた次第。学習院大学に入学したのが昭和三十一年だから何しろ三十七年も前のことで何故アメリカンフットボール部に入部したのかはどうも定かではない。しかし部の諸先輩の強引な勧誘で嫌々ながら入部したのではなかったようだ。高校時代には東大に入ったら六大学リーグで野球をやろうと密かに考えていた自分にとって、第二志望の 学習院への入学が決定的になった時には、少々がっかりもしていたことも偽らざる事実であった。したがって確たる目標もなく、ただブラブラしていた時、学習院新聞より勧誘の手紙が届き、一時は記者になろうかと考えていたことを覚えている。しかし一方では何かスポーツをやり心身を鍛え、有意義な学生生活を送れないものかとも考え、輔仁会各運動部の説明会にも出席し、諸先輩の説明に耳を傾けたのを昨日のように思い出す。当初やはり中学、高校の前半までやっていた野球のことが気になり注目したが、当時の野球部は東都大学リーグで一部昇格を果たし意気盛んで、入部の条件も高校野球部の推薦、ないしは野球部の体力・技術テストに合格することとかなり厳しく説明された。これでは何のためのクラブ活動か、甚だ疑問に感じ門をたたくまでには至らなかった。

 一方アメリカンフットボール部は当年(昭和三十一年)より早、慶、明、立、法、日大のリーグ戦に学習院の参加が決まり鋭意陣容の強化に注力中。新入生の積極的参加を熱望との説明あり、関心は次第にアメリカンフットボール部に傾いていった。アメリカンフットボール部は米国ではナショナルスポーツとて人気は野球をしのぎ、その隆盛振りは既にニュース映画等で知っていた。しかし果たしてやったことの無い者がやって行けるのか聊か不安ではあったが、当時憧れていた米国を理解する にも一考に価すると思い、とにかく門をたたいたのが第一歩だった様に思う。その中①集団の競技ではあるが格闘技の要素が強い。②野球と同様攻撃と守備が別れているが、高度の戦略性という意味では到底野球の比ではなく、またそのパワーとスピード感は競技の中でも最右翼との感を深くし、知らず知らずの中に熱中してしまったようだ。爾来、現役、OBで直接、間接にアメリカンフットボール部に関わってきたが、この機会に苦節と云われる遠い昔の記憶を呼び覚まし、往時を回願しつつ更なる発展を期したいと思う。

一、 現役時代

 昭和三十一年に入学した同期の中でアメリカンフットボール部の面々は当初十数名を数えたが、二年の終わりでは雨宮、加 来、坂下、数原、仙波、立岩、羽田野、西島と半減、三年では雨宮、立岩、羽田野、西島四名のみが選手として頑張り、他の者は負傷等により休部又は退部して行った。従って毎日の練習では選手不足は否めず常時二チーム編成は困難で片面でのスクルメージのよる練習を余儀無くされ、これが実戦ではハンディキャップとして出ていた様に思う。確かにその年(昭和三十三年)のリーグ戦は国立競技場、後楽園競輪場で行なわれ、学習院は日、立、慶、法、早、防、明に破れ最下位。翌年は二部制をとることにより、明治大と共に二部に行くこととなった。当時の日刊スポーツ「夏の合宿廻り」で学習院の欄は小野木マネージャーの「先ず点差が開かぬ様ディフェンスを固めることから始めている」旨の談話で始まり攻撃力に決定打がなく最下位脱出は容易ではないと予想されていたのを思い出す。果せるかな日大、慶大には一〇〇点差ゲームの惨敗。他校との合同練習等では個人的に遜色の無い選手も多く、それ程差があるとは思えないが試合となるとチーム全体の勝利に対する意欲、執着心等が持続せず、ただ無気力に試合を消化する様な二流チームによくある状態となってしまい、やる気のある者にとっては甚だ口惜しいことではあった。しかしそれでも救われたことは、シーズン途中で学習院の窮状を見かねた日大OBの竹本 氏がヘッドコーチを引き受けられ、フォーメーションの調整を中心に全員の動きを矯正したことだった。この様なちょっとした指導でも効果は直ちに対明治大、防衛大戦に善戦という形で表われ、やはり部としてアメリカンフットボールが良く分る指導者が必要であることをこの時程痛感したことは無かった。

 昭和三十四年は最後のシーズンとなったが春の定期戦では甲南大に三十三-〇(於西宮)で破れ、成城戦では辛くも勝利をおさめた。この時特筆すべきは、甲南戦の翌日、東西大学交流戦として西宮で京都大と対戦したことであろう。定期戦ではなかったからか接戦だったが何れが勝ったのか記憶が曖昧。後日日刊スポーツでは京大十三-六学習院大と報じられている。京大といえば、今では関西はもとより日本の代表的大学のアメリカンフットボール・チームではあるが、当時はわが学習院と共に東西の下位チームで実力的には同程度の様に思われた。しかし対戦して見て試合態度も紳士的で実に爽やかな感じがし、われわれも見習うべき点が多々あった様に思う。今にして思えば、後日京大の雄飛は彼等のバックアップも大きな要素ではなかったのだろうか。この四十周年を機に往時を偲びながら旧交を温め、共に更なる発展を期して大学チームの交流戦を復活させることも意義あることではないだろうか。秋のリーグ戦は日体大、明治大に連敗。よもやと思われた東大戦にも敗退した。当初、攻撃力強化のためライン、バックスの間でのコンバートが検討されたが、結局選手層の薄さが致命的で徹底せず、ライン・ リバースを奇襲攻撃としてフォーメーションに加えた程度で、消極的なディフェンス中心の布陣を取らざるを得なかった。最終戦の対東大でもほとんどは東大陣内で戦いながら敵ゴール寸前でハンブルを繰り返し、再三の得点チャンスを逸したが、今にして思えば攻撃力強化の不徹底がその原因の一つに思えてならない。前年の竹本氏の例を見てもやはり優秀なヘッドコーチが必要であった様に思う。幸い成城大戦には勝利をおさめたが、反省点の多い不本意なシーズンであった。確かリーグ戦最後 の東大戦に破れた翌日は雨で、一人近くの鷺宮の田んぼの中を歩きながら、OBになっても現役時代の貴重な体験を生かし、チーム強化のため大学、OB会に働きかけ、いつの日か勝利に対する熱い感動、感激を知る立派な部に発展すべく努力しようと心に誓った。何故かほろ苦く、無性に涙が出て止まらず、雨と共に頬を濡らしていった涙の感触は今だに忘れられないものがある。

二、 OBになって

 昭和三十五年卒業後しばらく会社の業務研修、英会話レッスン等で時間余裕が無く、アメリカンフットボール部の練習、試合等には疎遠になりがちであったが、昭和四十年春、突然勤務先の三菱商事にアメリカンフットボール部OB会より緊急に総会を開くとの電話連絡が入った。連盟理事をしていた私に万障繰り合せ出る様要請があり、急遽出席した。主たる議題は「OBコーチング・スタッフの現役に対する体罰事件」であった。大学側は現役及び現役の父母よりの苦情を問題とし、OB会に コーチング・スタッフの更迭と然るべき適切な措置を要請。実施されない場合は廃部もあり得べしという強い態度であった。内山会長(当時)が議長となりコーチング・スタッフの更迭が決議され、新コーチング・スタッフについては監督に飯田氏を指名、コーチは同氏に一任することに決定された。尚同時に適切な措置についてはコーチング・スタッフ責任者のOB会よりの除名が決議された。私は確かに体罰は問題なしとはしないが、特に運動部においてはそれが愛のムチか否かの議論もあり、一概には否定出来ない局面もあり得るとの観点より、この際当事者より事情を十分聴取し後日然るべく善処すべきとの意見を述べたが、愛のムチなら、これ程問題とはならないとの意見が強く、又部の興廃をめぐり事態が切迫している時でもありやむを得ず多数決で決議されてしまった。四十周年を迎えた今日、当時血気盛んで若かった当時者諸氏も、各々立派な社会人として活躍されている由、ここら辺でそろそろ名誉回復を図り、OB会復帰をも検討しては如何なものだろうか。

 内山会長の適切な対応により心配された謹慎期間中の公式戦事態等は回避することが出来、新たに指名された田代ヘッドコーチの下現役は心機一転トレーニングを再開した。

 一方、私は現役の練習、指導とは別にアメリカンフットボール部を学習院を代表する立派な部とするため、日頃えていた大学側への働きかけを開始することとした。

 第一目標は先ず「大学輔仁会運動部会における地位改善」であった。即ち旧制高校時代より実績のある公式野球部、ラグビー部、公式庭球部、陸上ホッケー部等の部が格上で新制大学発足後設立されたわがアメリカンフットボール部、スキー部、アーチェリー部、ゴルフ部等の新興の運動部は形式的には部として対外試合等の活動は認められてはいるものの、予算の割当等には文字通り歴然たる格差があり、運動部とは云っても予算的には同好会の範疇に入り、中には部ではなく同好クラブとの陰 口を耳にすることも多々あった。これでは部員の志気にも影響し、又部員勧誘においても一部アメリカンフットボール愛好者以外は魅力を感じて入部する者が少なく、十分な部活動を遂行し難い。この点につき大学側と話し合い改善を申し入れる必要 があった。そのため先ず手始めにアメリカンフットボール部長に教授クラスの方に就任していただき、現役の教育と共に大学関係部局とのコミュニケーションを図ることを検討。偶々、私のホームルームの先生で常日頃ご指導いただいていた金沢教授に趣旨をご説明申し上げお願いしたところ、直ちに快諾の返事を得ることが出来た。次に内山会長と打合せ、輔仁会運動部会における当部の地位改善につき大学側に内山会長信を出状。当時学長であった桜井教授とは部長の金沢教授のお力添えもあり懇談する機会を得、当方は内山会長ご同席の下に「同じ運動部でありながら旧来の部と新制大学発足後の部を今だに差別しているのは教育の観点から見ても納得が行かない。やむを得ず格差をつける場合でも基本的には資格は平等にて、あとは活動状況で考慮すべき」との見解を申し上げたところ、学長は直ちに理解を示され、早速担当の磯部教授(後の学長)を紹介された。同教授には決定機関であり運動委員会にかけ、審議に入る様ご配慮いただき、事態は好転して行った。結果は当方の主張「全ての運動部は平等」とは別に第一段階として当部の他スキー部、アーチェリー部が格上げとなり、一応曲りなりにも当方の目的は達成された。これも最終的には当時(昭和四十三年)主将であった鈴木君、奥沢マネージャー以下現役諸君の格運動部委員 に対する粘り強い説得がなければ到底実現出来なかったことであった。この格上げは部としては開闢以来の快挙であり、金沢教授はじめ須恵監督、OB、現役共に大願成就を喜び希望あふれる球史の第一歩を祝したものだった。

 その年は須恵監督のもと部の志気は大いに盛り上がり、対甲南大定期戦には宿願の初勝利をあげることが出来、OBも現役時代には無かった感激を味わい、祝杯をあげたものだった。翌年(昭和四十四年)も甲南には連勝、漸くリーグ戦でも堂々と戦える陣容が整い、前途に光明が見える思いであった。

 昭和四十五年には私が須恵大兄の後を継ぎ監督を勤め、三たび甲南を破ることが出来た。しかし、仕事の関係上、急に欧米への長期出張が決まり、シーズン半ばにしてやむを得ず部を去ることとなった。勤務先の都合とはいえ部には実現すべき懸案事項が多く、心残りではあったが、あとは後進に託し成功を祈るのみであった。

三、 母校アメリカンフットボール部との再会

 三菱商事の長い海外勤務と多忙であった部長職の任期も終りに近づき、社外役員として関連会社へ出向く準備で一息ついていた一昨年冬、偶々横浜球場で母校アメリカンフットボール部が二部優勝を果たし、一部入替戦で健闘している雄姿に接することが出来た。一〇〇名を越えんとする大軍団が一部昇格を目指し、戦う姿を目の当たりにして、強い感動を覚え思わず目頭が熱くなった。

 私が昭和四十五年、部を去って早二十三年。その間に夢にまで見た大軍団に育て、今や学習院の主力運動部に発展させたOB諸兄並びに現役諸君に敬意を表すと共に、この四十周年を迎え更なる発展を期し私も微力ながら再び部に貢献したいと思う今日この頃である。


21世紀に向けて

特別寄稿

(1959/昭和34年度)

立岩 彰(1960/昭和35年 卒)

 学習院大学のアメリカンフットボール部は今や学内の主力運動部に成長したが、更に発展させるためには京都大学の例を見ても明らかな様に、アメリカンフットボール部に憧れ受験する学生が増える環境作りが必要と思われる。それには学習院の総合力を発展させ、学力共に優秀な選手の下、勝利の栄光に輝く立派なチーム作りが必要である。そのためには少なくとも左記二点につき可及的速やかな実現が望ましい。

一、 大学アメリカンフットボール部監督又はヘッドコーチの学内でのAUTHORIZATIONについて

 監督又はヘッドコーチは従来のように単なる外部からアメリカンフットボールをコーチに来ているに過ぎず大学とは直接関 係を持たないといったものではなく、大学と部とのパイプ役となり大学との共存共栄を図り、大学の発展に貢献出来る有能な指導者であることが必要である。その者が大学の教員であればベストで、このことは東西大学の常勝チームの指導者、日大の篠竹監督(日大教授)、関学の武田総監督(関学教授、前学長)等を例にするまでもなく明白である。私が監督を引き受けた時(昭和四十五年)にも現役、OBに再三このことを話し、大学に勤めアメリカンフットボール部の面倒を見ようと思う者があれば積極的に支援する旨力説これ努めたが、残念ながら途中海外転勤で中座してしまった。しかし今や部も歴史を重ねOBの中にも一流企業の定年退職者も出始め、時間的余裕を持ってコーチと共に講師も出来得る有能な人材も輩出しつつある。時あたかも大学は「学習院二十一世紀計画」によって新しい世紀に向けて教育の刷新を図ろうとしている時、少なくとも部活動も大学教育の一環として取り上げられることは間違いなく、これに関係する部の監督ないしヘッドコーチは大学側の教員の一人として責任を持って指導に当たるべく体制の整備が必要であろう。勿論その時、教員ないしは講師の格付け及びそれに伴う経費についても大学が負担し切れぬ場合はOBによる寄付金等で賄うべく制度化も検討されねばならぬはずであろうが、これらは大学発展という大前提の下では自ずと解決され得るものと確信している。かつて大学がバレーのオリンピック選手の三屋裕子氏を講師に迎えた記事を新聞で読んだことがあったが、OBの中にも同氏に勝るとも劣らぬ立派なスポーツマンも多く、又当然のことながら強い愛校心のもと母校の発展には骨身を惜しまず尽力する方々も多い。一方最近では一芸に秀でた人物を講師として招く大学もあるやに聞き及んでいる。学習院大学も早慶等と同様私学である以上、これらのことも十分考慮し積極的に有能なOBを活用又は登用し、部ひいては大学の発展に貢献させるべき時期が来ている様に思えてならない。

二、 中、高等科アメリカンフットボール部創設について

 各有名私立大はそれぞれ傘下の付属中高等学校にアメリカンフットボール部を持ち、大学の部でも彼等が主力となって活躍していることは一貫制教育の立場から見れば至極当然のことである。この点においてもわが学習院は後れをとっており、遺憾ながら未だに実現していないのには驚きという外ない。かつて私が監督の頃、高等科の生徒の中にアメリカンフットボールに興味を持つものが多く、当部としても何とか高等科の部創設に支援すべく大学アメリカンフットボール監督信を以って高等科 に部創設の理解に努めたが、高等科担当部局では今のところ設備の関係上これ以上運動部を増やすことは困難であるという驚くべき消極さであったが、高等科も一貫制教育により受験勉強の弊害を無くし、知育、徳育、体育をバランスよく教育する立場である以上、他の私大付属高校と同様課外の活動にも力を入れるべきであろう。この点につき更めて高等科とも話し合い、院長、科長のご理解を得て早期創部実現に努めるべきである。本件は単にアメリカンフットボール部に限らず、他の運動部にもいえることであり、取りも直さず、学習院の運動部の発展につながることは論を待たぬであろう。運動部の強化は全学習院の名声を高めるものであることは、かつての一校、学習院の野球、昨今での早慶の例を見るまでもなく、他の有名私大でも認めるところであろう。何とか高等科にアメリカンフットボール部創設を実現すべく再び働きかけようではないか。


回想記

(1960/昭和35年度)

平岡 一矩(1961/昭和36年 卒)

 私がアメフットと縁ができたのは、高校生の頃、後楽園の競輪場に何度か観戦しに行ったことにある。 只、その頃は、夢々自分がフットボールをやる当事者になるとは想像もしていなかった。私は高校生を四年やり、浪人生活も2年やって学習院に入ったので、心身共に焼き直しする必要があると感じていた。そのために高校時代は2年で挫折した野球部の経験もあり、大学生活の4年間は、どこか運動部に入って、自分を鍛え直そうと考えていた。

 確か、昭和32年の春の定期戦が始まっており、私がアメフット・クラブに関わったのは、法政戦の1週間位前だったと思う。当時は、まだ関東は1部、2部も無い1リーグ8大学の時代でした。学習院は先輩から伝え聞くところによるとクラブ創設の古さでは慶応義塾大学と肩を並べるほどなのだそうだ。このくらいのことしか当時の学習院のアメフット・クラブが誇れるものは無かった。実際、試合の前日になると日頃は滅多に顔を出すことの無い部員まがいの人間をマネージャーの水島が四苦八苦で動員をかけ、フォーメーションを組み、タイミングを合わせるという有様であった。したがって、試合に勝つための練習などは、1度足りともした憶えがないほどである。

 夏の合宿といえば、成城と1回、法政と2回、慶応と1回という具合で、自主合宿ではフォーメーションが組めないので、合同合宿の形をとらざるを得なかった。しかし、こんな中でも、私自身が練習を休まず続けてこられたのは、入部の主たる目的が自分を鍛え直すことにあったからだと思う。そして、マネージャーの水島が1年生の頃から時には道具をつけ、ジャージを着て、練習に加わるといった姿は私にとって、大変な励みと勇気を与えてくれるものであった。

 彼は、あの時すでに「克己」という信条を持っていることを私が4年生の時、主将に任ぜられ彼と1日、今年はどんなクラブ運営をしていくかを話し合った折に、この言葉に触れ「やっぱりこの男は違うな」と感じたものである。

 アメフットが好きであるというエネルギーで先輩で私の知る限りでは、須恵さんと西島さんが双肩である。須恵さんは当時でも後輩を怒鳴って、怒鳴りまくる迫力を持っていた。西島さんは、試合中に足の骨折を2度までも経験しながらフットボール好きはその度に並々盛んになるといった感じさえした。また、弱いチームながらアンバランスTというフォーメーションで日大の第一黄金期を築く原動力になっていた織戸選手にも勝るとも劣らない素材を持ったプレーヤーもいた。同期にフルバックをやっていた藤田。この男は高校時代100mを12秒台で走る足を持ち、陸上選手で活躍しただけあって オフェンス時における彼のオフ・タックルを担うプレーは見事であった。しかし、彼の真骨頂はディフェンスのバックスとしてのものである。そのすごさは、今でも脳裏に焼き付いて離れない。彼のタックルのタイミングとスピードと当たりの強さは超一流のものであった。練習時においても彼の見せるタックルの迫力は今でも忘れることの出来ないものである。まっすぐに走らせたなら必ず3ヤード出るという得意技を持っていた右ハーフ・バックスの島崎という男もいた。彼のハンドオフは、当時、法政のスター・プレイヤー白鳥選手を彷彿とさせるものであり、私はライト・ガードかセンター というせいもあって、彼のナイス・ゴ-イングを何度も見た。1年先輩に立岩さんがいたが、彼はディフェンスの時間が長い学習院にあって、ディフェンス・タックルとして大活躍した。スクリメージ・ラインの中に割って入ってヤード・ロスさせるタックルの冴えは彼の独壇場のものであった。すでに数年前、故人になった杉立は、1年生からQBをやり、ショート・パス13という今で言うショットガン・プレーを得意技としていた。

 私が2年生の折、まだ1部リーグの時代で秋の公式リーグ戦の第1戦は、最強赤ヘル軍団の日大であった。場所は国立競技場、キックオフは確か午後4時30分、後半はナイターの照明を浴びての試合だった。スコアは今では考えられないと思うが100点台の大差で負けた。そんな試合でも、ショートパス13はゲインしたのだ。4年生になった時、同級生が一番多いメンバー構成という中で、就職活動で浮き足立った状態に置かれながら、最後まで私共々練習を熱心にやってくれたのは副将の大石であった。昨春、現役の勇姿に触れるべく大阪の長居競技場に出向き、甲南戦を感動をもって観戦した。後日、水島から連絡をもらい、今では運動部の中では野球部を凌いで最大の部員を擁する運動部になっていると聞いて隔世の感を深くすると共に、本当に嬉しく感じたものです。

 後輩には島田、中谷、松永、岡田、目黒、杉立(弟)、などの顔が浮かぶ。彼らは皆練習によくついて来てくれたように思う。ただ最近、残念に思うことは京大の水野監督の話を聞いたり、彼が寄稿する新聞のコラムを読んだりして思うことは、当時の学習院のアメフット部には本当にポリシーというものが無かったように思うことである。そんな部風の中でも、貴重な教訓を学ばせてもらった。 あれは昭和34年のシーズンであった。私が3年生の時、竹本さんというハワイ出身のフットボール・コーチを迎えて半年くらい指導を受けた。その時教えて頂いたことで、今でも忘れていないことがある。

  • 1つは、スタート・ダッシュの大切さを強調され、最初の一歩の歩幅を小さく取ることがコツであることに気付かされたこと。
  • 2つめは、フットボールはコンマ以下のタイミングが命のゲームだから、例えケガだろうが理由は何であれ練習を休んだらスタメン落ちをさせるという態度を貫かれたこと。
  • 3つめは、ロータックル(ひざを狙うタックル)ではなく、ハイタックル(ボール・キャリアのボールを狙うタックル)がタックルの基本であるということ。
  • 4つめは、練習時間は長ければ良いというのではないという考え方→確か一日2時間説
要するに、技術というのはコンセプトが中心であるということを学んだことは、実業の世界に入って大いに役に立った。

 30年前を振り返って思うことは、何事であれ「きちんと取り組んで体験することの尊さ」をアメフットの部活を通して体得できたもののように感じられる。


創部40年に思う

(1961/昭和36年度)

島田 孝彦(1962/昭和37年 卒)

 学習院大學輔仁会アメリカンフットボール部創部40周年を迎え、OBの一人として心から嬉しく思います。

 昭和37年3月に卒業したアメリカンフットボール部員は、中谷公英君、都築健一君と私の3人だけでした。昭和33年入部した部員はほかに数名いたように記憶していますが、数ヶ月で退部してしまいました。入部して卒業するまでの間、部員数は15名前後でした。現在の現役の部員数と比較すると正に隔世の感があります。部員数が少なかったので1年生の時からゲームに出させて戴きました。練習字の辛さも時間がたつと楽しい思い出になりますが、現役のときはゲームが楽しみでした。改装前の神宮競技場、今はなくなってしまった後楽園競輪場内のグランド等でのゲーム、東西交流戦でのゲームなど、今でも鮮明に憶えています。部員数が多ければ、あれほどゲームに出ることは出来なかったと思います。4年生の9月に練習で怪我をして数ヶ月入院生活を送って、最後のシーズンを棒に振ってしまった口惜しい思いでもあります。生涯の趣味として「アメリカンフットボール」を持つことが出来たのは何よりだと思っています。

 4年間公私にわたりご指導いただいた諸先輩に改めて感謝するとともに、今日の状態にまで発展させた後輩諸君に敬意を表したいと思います。


十一人のアメリカンフットボール

(1962/昭和37年度)

岡田 菊治郎(1963/昭和38年 卒)

 我々が四年生の昭和三十七年と云えば、反安保闘争が吹き荒れた暗い時代から、池田内閣の所得倍増計画と云う今日の礎となった高度成長時代への転換期となった年である。

 その頃はまだアメリカンフットボールは日本ではメジャーなスポーツとは云えず、マイナーなスポーツであった。通称「アメラグ」関西では「アメリカン」と呼ばれ、現在のようなテレビ中継は勿論なく、スポーツ新聞でさえ片隅にスコアーだけが記事の穴埋めのような形で載るだけだった。

 その当時の我が部は、創部以来十年にもなると云うのに相も変わらず「無い無いづくし」の状態であった。まず部員数が極端に少ないことである。恒例の春の甲南大学との定期戦では、一年生部員の入部が無く十一名ぎりぎりで戦ったように記憶している。結果は推して知るべし。夏の合宿でも前年から引き続いて日本体育大学との合同合宿を実施したが、ここでも一年生部員が入ったとは云え十名ぎりぎりで、怪我で欠員が出ると日体大から人を借りてスクリメージを組むという有様であった。

 秋のリーグ戦が始まる時期には、部員数は十四名に増えたが、この人数では思うような練習も出来ず成績はと云うと三十数年も前のことでもあり記憶の外になってしまっている。防具にいたっては、ほとんど進駐軍の払い下げで先輩の使い古しのボロボロ防具である。中には片方ずつ別のショルダーを合わせて使ったりもしていた。ボールもラグビーボールのように膨れあがったものが二個、ダミーは一個というような貧しい運動部であった。それでも我々は、アメリカで盛んなものは、何時か日本でも流行るぞという気持ちをもって練習と試合に励んだものである。

 創部四十年になる今日のこの隆盛を誰が予想することができたであろうかと感慨深い思いがするこの頃である。四十年に亙るOB会員の弛み無い努力と、このような苦しみとか屈辱の歴史が積み重なり今日がある訳で、このことを現役諸君は肝に銘じ、更に一層練習に励み、近い将来「ライスボール」出場という我々の夢を実現させて欲しい。

 昭和三十七年の四年生は、主将松永君(エンド)、副将私(フルバック)、吉川君(タックル)、主務神永君の四名である。


秋期リーグ戦初勝利

(1963/昭和38年度)

菊池 正臣(1964/昭和39年 卒)

 「リーグ戦初勝利」私が四年間の部生活で一番印象深く、又忘れることが出来ないのは、この言葉通りの初勝利に尽きる。学習院大学アメリカンフットボール部創立以来の快挙(あえて快挙と言わせてもらう)を成し遂げたことは大変幸運であった。と同時に、部の輝かしい一頁を飾れたと自負している。

 入部以来、どんなに苦しい練習や合宿に耐えて、全力を尽くして試合に臨んでも得られなかった勝利。(二年生のときに東経大とは惜しくも引き分け試合を経験しているが)四年間の部生活に於いて、残りの一試合を残すだけで得た勝利は格別の感があった。対戦相手は青山学院大学である。場所は国立競技場で行われる予定が雨で変更され、我が学習院大学北グラウンドでキックオフとなった。これも幸運の女神が舞い下りたのか、学習院大学の勝利となるとは、何と幸運なことであったろうか。

 試合当日は、朝から小雨が降り、グラウンドはぬかるみ、我々の前に防衛大―東経大の試合が行われた為に最悪のグラウンドコンディションとなっていた。当然雨中のゲーム故にパスプレイは使いづらく、ランプレイ主体とならざるを得ない。これがオフェンス力では少人数ながら他校とはそれ程差がないが、ディフェンス力、特にパスディフェンスに於いてやや難があった学習院には幸いしたと思われる。第四クォーターまでは、お互い決め手が無く一進一退、タイムアップ五~六分前に自陣二十ヤード近くまで攻め込まれたが、なんとか持ちこたえてファーストダウンとなった。ここでクォーターバック杉立がTフォーメーションよりレフトハーフ・エース目黒のハンドオフ左オフタックルプレーを決断、これが成功、目黒の八十ヤード近い独走によりタッチダウン。トライフォーポイントを決め八―〇とした。もう後はこれを守りきるだけと選手全員死力をふりしぼり、必死の攻防で青山学院に得点を許さずタイムアップとなった。四年間のつらくて苦しい練習、少人数故の他校にすがっての合同合宿、合宿に於ける他大学付属の高校生チームとの練習をよぎなくされた屈辱的な想い等々が、この勝利により全てが遠い過去のものとなり洗い流された。アメリカンフットボールをやってよかったと、この時程感じたことはなかった。この勝利が一つのきっかけとなったのかどうかはわからないが、必ず勝利をおさめ、全敗はなくなったはずである。小生を含めて当時の部員全員、このことは誇りに感じてもいいはずである。これは諸先輩の方々がこれまでに築いてこられた戦いの歴史が十二分に裏づけされたものであることはいうまでもない。

 当時リーグに加盟している大学はわずか十三大学しかなく、防具も米軍払下げの中古で、修理しても完全な防具とはならず、又フォーメーション自体も現在のような多様なフォーメーションもなく、確かな理論に裏づけられた練習方法などが確立されていなかったので、諸先輩の方々は大変な苦労をされたと思う。そういう中で自分たちに適した方法を、創部以来の諸先輩方々が少しずつ模索しながら工夫を加えられた、我々後輩に対しての指導とか練習方法や試合運びがあった。これらの努力の全てが丁度花開いたのが我々の時であり、リーグ戦での勝利につながったのはいうまでもないと確信している。

 入部すると酒と女には不自由しないと言われて(これで入部したわけではないが少々不純な動機があったやも)入部したこと。一年生の合宿では疲れて食事が食べられず、眠れず夜逃げしたくなったこと。初めての試合が国立競技場でのナイター戦(リーグ戦)。二年生と四年生時における甲南戦の関西遠征。人数不足でマネージャーまで借り出しての試合。合宿で水を飲みすぎて腸カタルとなり隔離されたこと。納会では音痴故に必ず歌の指名がかかったこと等々。この原稿を書いていると走馬灯の様に三十年程前の部生活が頭に浮かんでくるが、最初に想い出すのは、私の部生活の集大成である初勝利に尽きる。

 つたない拙文ではあるが、当時の諸君がこれを見て感激を新たにしてもらえれば大変嬉しく思います。


我が青春の思い出

(1964/昭和39年度)

吉川 嘉之(1965/昭和40年 卒)

 NFLのフットボールが映ると言うので衛生放送をつけてしばらくになる。フットボールこそは我が青春の思い出である。50になってしまったオジンにとっては遠い昔の夢になってしまった。あの頃はアメフトの名前だけは知るもののその何たるかを知る人の数は極少なかった。銀座の洋書店でようやく英語のルールブックをみつけはしたものの、我々の語学力ではわからなかった。新宿のスポーツ店でプロテクターを売っているものの当時の金額で五万円もする買い物は出来ず、それでも買う先輩や後輩が羨ましかった。先輩の古い防具を譲り受けて、ひざのパッドは雑巾で我慢し、卒業の日までラグビーシューズを常用していた。

 部員は十二・三人しかいないので、今井君には腕の骨折を無視して出してしまったし、日大の三軍に相手をしてもらって練習試合をしたものの、私の飢えには九人もの人が折重なり、一番下に玉を抱えた私はブキッという不気味な音とともに肋骨を折ってしまうほどに弱かった。練習といえばカモンタックルばかりで、だからOBの来ないウィークデーは反動だろうか気の抜けた練習ばかりしていた記憶がある。カモンタックルといえば両足をつかまれた私は簡単に足の骨を折ってしまった。こんな怪我ばかりしていていても当時の年間は長かったのだろうか。大学の洋式トイレには終始お世話になった。これで強かろうはずがない。

 でも当時は青春時代であった。一生懸命やっていた。日体大の合同合宿では真っ先に起きてグラウンドに行く用意をしていた。当時の一番のグラウンドは後楽園の競輪場だった。観客ゼロ。プレーヤーの周りには監督と、得体の知れない誰かさんの彼女何名か?この頃の写真を見ていただきたい。この写真を撮ってくれたのは私の友人、根本君だがこれを撮ってまもなくスキューバ・ダイビングで、吐かなくも命を失ってしまった。彼はカメラの望遠を駆使して我々のプレーを色々の角度から写してくれた。当時の我々にとってかけがえのない存在であった。まだカラーとか、いわんやビデオなど存在しなかった時代。フットボールといえば少ない観客。怪我ばかり。ルールも卒業を控えてどうやらマスターしたかどうか。しかしヤンキー魂か大和魂かしらないが肉弾戦に憧れて、今これをやれば将来はきっと役にたつ苦労と思ってやってきたが、今になって見れば青春の思い出以外何も残らない。しかし、思い出のある事こそ青春のあった証拠だろう。衛生放送のフットボールを見る度に我が青春の血は踊る。


貴重な想いを共有した友

(1965/昭和40年度)

高瀬 忠(1966/昭和41年 卒)

 中島憲嗣のことを書く。高知県出身。昭和三十七年、学習院大学政経学部政治学科入学、四十一年卒業。在学中、アメリカン・フットボール部に所属、最終ポジションはクォーター・バック。卒業後、協和発酵に入社。平成三年春死去。四十七歳。

 中島や私たちが入学した昭和三十七年は、前々年のいわゆる六十年安保の騒乱状態が一転して、国内は平静状態に、学生運動は一種の虚脱状態となった時期であった。その後の七十年安保の状況からみれば、学生運動の中では、私たちは”遅れてきた”あるいは”早すぎた”世代である。中島は入学とほぼ同時にアメリカン・フットボール部に入り、私自身は一年遅れの入部だった。池袋の安アパートで日がな、安酒をあおっていた私が入部したのは、その頃の学生生活にいささかの自己嫌悪を持っていたためだろう。

 中島のことを一言で語るのは難しい。ただ、つねに冷静であった。試合がエキサイトしているとき、先輩の理不尽な仕様に、私たちが怒っているときも、中島はいつもさめていたように思う。今でも、試合中の白っぽい風景の中に彼の白っぽい表情が浮かびあがる。いつも穏やかであった。それでいて妙に強烈な印象が残っている。

 卒業して数年後、一度だけ、中島にあったことがある。学生の頃と変わりなく、穏やかだった。以来、二十年余、中島に会うことはなかった。他の同期、先輩などとも、私が九州に戻ったこともあって会うことはなかった。

 中島のその後の人生も何一つ知る事はなかった。別れて以来の歳月の中で、私なりの道を歩んだように、中島にも幾多の生き様の変転があったろう。それを語り合うこともなかった。中島の想い出も、その風貌も現役当時のグラウンドの中で凝結している。彼の訃報を知らされたとき、やはり、彼は白っぽい表情しか見えてこなかった。人生の中でも、わずかしかない貴重な想いを共有した友であった。ただ、冥福を祈るのみである。


スカウティングの勝利―青学戦

(1966/昭和41年度)

阿部 武城(1967/昭和42年 卒)

 昭和四十一年度、春の甲南大学定期戦に善戦したことで、我々はフットボールに対し自信を持つことが出来た。その上秋の第一戦、雨の中とはいえ一部より降格の早稲田大学に対し、六対六で引き分けたことにより、益々自信を深めた。専修大戦は残念ながら、タッチダウン一つの差で敗れはしたものの、東京経済大には楽勝、日本体育大学と引き分け、そして我々に勝てば二部優勝の青山大学戦 を迎えた。

 秋晴れの早大伏見グラウンド、学習院大学のスターターは、LE米田(4)、LT渡辺(4)、LG高瀬(3)、C仲地(2)、RG梶(2)、RT長谷川(2)、RE高橋(3)、QB中野(2)、LH安岡(3)、RH阿部(4)、FB北橋(4)、のイレブンである。

 四年生にとって最後の試合でもあり、何とか青学に一泡ふかせてやりたかった。田代監督のもとコーチ陣と我々全員は、勝利の道は学習院の弱点ディフェンスにあるとスカウティングの結果を出していた。そこで青山学院大のアンバランスTフォーメーションに対してディフェンスは、青学のQB上住に的を絞るという結論である。

 当時の日本の学生フットボール界のディフェンスは、「6-2-2-1」が主流で、アンバランスTに各大学は悩まされていた。そこで一番ディフェンスでの動きの良かった三年生の安岡君を真中のラインバックに起用し、ブリッツさせるフォーメーション「6-3-2」を考案した。「最高のパスディフェンスはQBに投げさせないこと」を地で行ったのである。青学オフェンスは、初めて見る6-3に混乱し、面白いように真中へ飛び込んでいく安岡君のQBサックが決まった。元々自信のあったオフェンスは、予定通り三つのタッチダウンを獲得。十八対六で快勝した。

 二部で優勝すれば一部昇格まちがいなしと云われていた青学の敗戦により、棚ぼたで早稲田が優勝と云うことになった。その早稲田がこの昇格から今日まで一部で活躍しているのを見ると、複雑な気持ちになるのは私だけだろうか。以上、昭和四十一年度のリーグ戦は二勝二分一敗の四位であったが、勝率なら二位と学習院大学アメリカンフットボール創部以来の快挙であった。またこの年は、我々が初めてシステムの重要性を実感出来たシーズンでもあった。それはスカウティングによる相手チームの分析と、自分たちチームの分析。そこからゲームプランを決定し、試合に臨んだことである。我々が学習院大学ゼネラルズの諸君に望むことは、常にチームの能力を最大限に引き出すことを考え、試合に臨むことである。そうすれば悔いを残すことなく、常勝チームになれる筈である。

 最後にこの年の卒業生を紹介する。まず主将でショートヤーデージに強かったフルバックの北橋明君、エンドでショートパスのキャッチを得意とした米田富太郎君、ラインの要、タックルの渡辺真也君、そしてロングゲインの得意なハーフバックで、副将の私の四人である。


怪我

(1967/昭和42年度)

高橋 基陽(1968/昭和43年 卒)

 どんなスポーツにも、怪我はつき物です。そして、アメリカンフットボールが一番危険なスポーツといわれています。しかし、この時ほど我々のチームを不運のどん底に落としたものはなかったでしょう。前年秋のリーグ戦で、惜しくも優勝を逃しました。今年こそはの意気に燃え、三月からの春期シーズンをスタートしました。チームの人数は約二十名。四年生は三名と少なかったが三年生、二年生が戦力的に充実していました。さらに、前のシーズンと比較して、体力的にも、技術的にも他校と見劣りすることはないとチームが思っていました。この戦力をさらにアップさせるためにも、つずく合宿が期待されました。

 三月下旬に行われた沼津での春合宿は、あの長島巨人軍が最下位の後に行った春の伊東キャンプに匹敵するくらい(?)の中身が濃く充実したものでした。朝おきてから夜寝るまで、一日中フットボール漬けでした。監督も、選手もひとつの目標に向かって邁進する団結心がありました。基礎体力作りと、それをベースにしたチームプレイにも張り詰めたものがありました。

 当時の基本フォーメーションは、Tフォーメーション。得意な、スナップバック後、すぐにHBがオープンに走り、QBがロングラトラル。オンサイドのTがプルアウトしてリードブロッカーになるプレーでした。タイミングがいいとロングゲインにつながり、さらには、タッチダウンの獲得にもつながりました。他校にはない、スピードあるオープンへの展開のプレーでしたもうひとつ、QBがFBにワンフェイクした後、HBにハンドオフし、オフタックルをつくランプレーにも破壊力がありました。それぞれ、単純で基本的なプレーですが、バックスの脚力と、ラインの力強さが組み合わさった得点力ある戦法でした。

 チームにとって満足できる合宿を過ごし東京に戻りました。春季オープン戦の日程が組まれ、ゴールデンウィークに行われる甲南大との定期戦が春の目標になりました。戦力の充実にともないオープン戦の開始にダブルヘッダーが組まれました。選ばれた相手校は、前年の戦績からすれば同格ないし格下と考えられる学校でした。

 ポイントゲッターはHBの安岡(四年)。ラインメンの中心は高瀬(四年)と長 谷川(三年)でした。ランプレー、パスプレーのコンビネーションは完璧に仕上がってました。しかし、試合開始早々、ランプレーで安岡が相手タックルを受け、足首を骨折。さらに試合が進んで、Tの長谷川も密集の中で、同じく大腿部を骨折してしまいました。攻守、チームの要の二人がリタイア。その後、ポジションの組み直しを図りましたが、その穴を埋めることはできません。ついに、一年間チームの立て直しを図ることはできず、残念なシーズンを過ごすことになりました。

 以上、当時部員が少なく、大部分のスターティングメンバーが、オフェンスもディフェンスもこなし、フルゲームでプレーをしていました。従って、チームの中心選手の怪我、故障が一年間の戦いに大きな影響を与えてしまったのです。現在のような、多人数で、役割が分担されているようなチーム作りができる最近は、なんともうらやましい限りです。

監督 須恵 厚
部長 斎藤 滋雄

昭和四十二年度卒業部員
主将 高橋 基陽
部員 安岡 賢二
  高橋 孝

故金沢先生と甲南戦初勝利の思い出

(1968/昭和43年度)

鈴木 憲作(1969/昭和44年 卒)

 昭和43年のシーズンを語るにはどうしても西洋史の故金沢部長先生の「熱い心情」を書き留めておきたく筆を取りました。今でも現役選手諸君はその年の目標を春の「甲南戦」と、秋の「リーグ戦」と定めて日頃努力をされていることでしょうが、昭和43年当時とて、その目標は現在と同じであり、いやそれ以上であったかも知れません。何故なら対甲南戦は学習院大学の全ての運動部にとって大目標でありその部ごとの成績は総合ポイントに組み込まれて彼我の名誉を競う伝統的な対抗戦であるからです。そして前年の試合は14対44で敗れ、15連敗という記 録を続けていた我々でありました。先輩たちも当然のことながらベストゲームをしたに違いありませんが、関西の雄「甲南大」の壁は厚くて、敗戦が続いていた訳です。

 当時、須恵監督、立岩コーチの指導のもと打倒甲南を目指して猛練習を続けていた我々の熱意が、金沢先生の御心をとらえたのでしょうか、部長就任を心よくお引き受けくださいました。それから5月4日の対戦(駒沢補助競技場)までの毎日を金沢先生は北 グランドに来ていただき暖かくてしかもガッツにあふれる激励を続けて下さいました。「君たちは勝ちます。必ず勝てます」とソフトな、いかにも大学教授という風な金沢先生の中にこんなにも強烈なお気持ちがあったのかと、当時の4年生が驚いたくらいでした。

 前夜の雨も上がり、5月晴れの駒沢グランドで第16回定期戦はキックオフされました。試合の事は詳しく記憶していないのです。(第2クォーターでの脳震盪のままプレーを続けていてからか。)記録を見ますと前半戦は学習院大学リード。後半は甲南大学の猛追撃を受けています。多分、第4クォーターでしょうが、センターの日名子に「俺達、勝っているのか?」と聞いて、「トラポン差で勝ってる、オイ大丈夫か?」というやり取りは鮮明に残っています。サイドラインで熱く応援されていた金沢先生は相当に心配したり、喜んだりとお忙しい事だったろうと回想しております。幸いにして初勝利を記録しました。20対18でした。

 この年はその後、夏合宿、秋リーグ戦と過ごしましたが、残念ながら春シーズン程の成果が挙がりませんでした。しかし、「甲南戦初勝利」と、金沢先生のご尽力で、秋の「運動部常任委員会、臨時総会」にて部昇格が決定しました。昭和43年11月29日のことでした。須恵監督、立岩コーチと連れ立って目黒にある金沢先生のご自宅へご報告に伺いました。この時の金沢先生のお喜びの顔は20年後の今も忘れられません。

祈るご冥福。最後になりましたが、当時の4年生のポジションを記して筆を置きます。

梶  利夫 ガード
仲池 漱祐 ハーフバック
日名子 光 センター
中野 憲芳 クォーターバック
長谷川龍一 タックル
鈴木 憲作 ハーフバック

常識とフットボール綱領

特別寄稿

(1968/昭和43年度)

梶 利夫(1969/昭和44年 卒)

須恵先輩から40年史の原稿が大分集まってきたから目を通してくれないかとお声が掛かり、先輩諸兄や後輩諸君の文章を読んでいるうちに、現役時代からタイムスリップしたかのごとく次から次に思い起こされ、矢も盾もたまらない気持ちになり、ここに文章を寄せるしだいです。

私がアメリカンフットボール部に入部したきっかけは、入学した年の夏休みに「入学以降出席日数ゼロですが、他大学に入学されているのですか」という問い合わせが大学事務局より我が家にあり、「これからの我が人生どうするべきか」マァ取り敢えず目白に行ってみるかという事で、夏の暑い盛り事務局に顔を出した。その帰り北グランドの横をふらふらと歩いていると、練習を終え汗まみれの爽やかな笑顔で予備校仲間だった長谷川が、「ヨォー久しぶり、お前こんなとこで何やってんだ」「イヤァ、俺、学習院に入学してるんだけど1度も学校に顔を出してないんだ、実はどうしようかと迷っているんだよ・・・・・・」「アメラグに入部すれば学校に足が向くぜ・・・・・・」というわけで、私はその年の9月から入部。アメリカンフットボールのルールも何も知らず入部して僅か1~2週間後の秋のリーグ戦にデビュー。鼻っ柱の強さだけで、アメラグってのは取り敢えずルールのあるグランドの中での喧嘩だなと、身勝手な早合点をして時の監督・ 諸先輩・同輩にたいして傍若無人な振る舞い、そして常識の欠落から迷惑を掛けた後輩諸君(特に昭和51年度卒業の諸君)に対して、この記念史をおかりして自戒を込めてあらためてお詫び申し上げます。

鈴木憲作よ、何時までもグチャグチャと "お前は1年のあのきつい春・夏合宿をスキップしやがって" と言うなよ! 詫びついでに、コーヒー1杯の勘定で目一杯食事させてくれた「田中屋」。目茶苦茶な宴会にも快く会場を提供してくれた「やぶ重」。ジャン荘「いこい」。キッチン「宮本」etc・・・・・・。本当にお世話になりました。いや、ご迷惑をお掛けしました。そして、我々の世代で忘れられないし、決して忘れてはならない大恩ある人。何時も部屋代わりのように出入りし、ご迷惑を掛けたにも拘らず厭な顔ひとつせ ず、その卓越した治療で我々の身体を側面からサポートしてくださった上、我が師同然に食事の面倒まで見てくださった今は亡き接骨医の福島先生。走馬灯のように懐かしい思い出がめぐりめぐってきます。

今は幻となった第1回対甲南大OB戦。 試合前日の深夜、赤坂のクラブ「ダンダン」に集まり、真夜中の東名高速を突っ走り無事敵地神戸に到着。睡眠不足にもめげず、意地と根性で快勝。殆どタッチダウンの経験のないラインメンをボールキャリアーにしたり、甲南にも少しは華をもたせなければとか、現役時代には1度も経験できなかったエンジョイフットボールで勝利を味わったことも懐かしい思い出です。現役時代対戦校によっては、100点以上の大差で勝利しなければ地獄の特訓なんてこともありました。 甲南OBフルバックの三原先輩のパワーは流石でした。高橋誠一君の活躍が一際印象に残っています。このOB戦に向けて現役時代から力を温存していたのではないかと吃驚するほどの活躍でした。以上私のアメリカンフットボールキャリアはこんなものしかありません。

私の過去も顧みず僭越ですが、OB諸兄、学生諸君、そして特に寸暇をさいて学生の指導にあたられている方がたに、もう1度思い起こしてもらいたいことばがあります。 それは「常識」(が規則)と、私の人生半ばに縁あって出会ったスポーツでありながら、はからずも今この時期になって初めて知った、「フットボール綱領」です。拙文の後に辞書と、公式規則から引用して記しておきますので、今一度お読みいただけたらと思います。

OBが1枚岩の団結を誇れるようになるとともに、学生諸君が強い勝利へのひたむきさをもって切磋琢磨して頂ければ甲子園ボウルも手の届く処にあると私は確信しております。 創部40年は歴史の通過点です。今世紀中に学生日本一の座を目指して下さい。現役学生諸君の益々の活躍とOB諸兄のご健勝を心より祈念致します。

【常識】(COMMON SENCE)

  • 普通一般の人が共通して持ち、または持っていなければならないと考えられる知識・道徳・意見または理解力・判断力。専門的知識や理解に対する語。(三省堂―広辞林)
  • 世の常に通じたる道理を、?へて知り居ること。(富山房―大言海)
  • 普通、一般人が持ち、また、持っているべき標準知力。専門知識でない一般知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む。(岩波書店―広辞苑)  

【フットボール綱領】(THE FOOTBALL CODE)

伝統的に、フットボールは学生のゲームであり、学校教育の重要な一環を担っている。それゆえ、プレーヤー、コーチ、その他の試合関係者に対しては、 最高のスポーツマン・シップと行動が要求される。

フットボールは激しく、力に満ちた、体をぶつけあうスポーツであり、またそうでなければならない。それゆえ試合では、不正な戦術、スポーツマンらしくない行為、故意に相手を傷つけることは絶対に許されない。 競技規則委員会は、規則と適切な罰則によって、すべての不必要な乱暴な行為、不正な戦術、スポーツマンらしくない行為がなくなるように、長年、努力してきた。 しかしこの規則のみでは、この目標は達成しえない。コーチ、プレーヤ-、審判員、およびすべての試合関係者の絶えざる最善の努力のみが、このスポーツの高水準の倫理を維持し、人々の期待に沿いうるものである。それゆえ、コーチ、プレーヤー、審判員、その他の試合の興隆に責任を有するものに対する指針として、委員会は次の綱領を揚げる。 綱領の項目は【コーチの倫理】【手や腕の不正な使用】【不正なシフト】【負傷を装うこと】【相手と話すこと】【審判員に話しかけること】【スポーツマン・ シップ】 の6項目に規定されている。

なお詳細は日本アメリカンフットボール協会発行の92年版アメリカンフットボール公式規則・解説書をご一読ください。


雑感

(1968/昭和43年度)

部長 金澤 誠

 ふとした機縁から、アメリカン・フットボールの部長に推されて、はや15年が経過しました。ふとした機縁とは、部を創立した内山君との私的関係であり、15年前に熱心に選手の養成に当たっていた須恵・立岩・入江・久保田君らとの同じく私的関係による。ある日、石上学生部長(故人)から、「アメリカン・フットボール部の部長になってもらいたい」と懇請を受けたのを、昨日のできごとのように思い出します。石上教授はそのとき「アメリカン・フットボールを大学の正式の部とすることに、先輩から何度も要請きている。しかし一方では他の運動部に反対も多い。自分としては従来の実績から、そろそろ正式の部に昇格させても良いと思っている。幸い先輩諸氏から貴君に部長になってもらいたいと言う申し出がある。この際諒承していただきたい。おそらく部への昇格も解決するだろう」と話された。初めて部の選手諸君に紹介され、余りに少数なのに私は驚いた。部員の少ないのも、確かに部に昇格するためには障礙であったに違いない。しかし少数の部員で、少数なるが故に、最後まで掛け替えがなく、全員で敢闘する姿に私は感動した。何度も勝たしてやりたいと、試合のたびに思ったわけである。しかし勝つためには、やはり精神的・物質的に有利な条件を設営することが肝要である。そのためには従来のクラブから部へ昇格することが1番だ、とようやく私にも呑みこめてきた。須恵君の熱意に促されて、私も大学の運動部委員に何度か働きかけてみた。そのうち、意外にすらりと部への昇格が決定された。おそらく、大学紛争の渦中で運動部委員会じたいがフットボール部の存在を無視できなくなった結果に相違ない。それでもよかった、と私は思っている。


やってよかったフットボール

(1969/昭和44年度)

高橋 誠一(1970/昭和45年 卒)

 創部50年を迎えるとのこと。戦後間もない時代に設立され発展してきたことを思うと、一層の重みを感じる。

 卒業後は勤務地の関係から部との付き合いも疎遠になってしまったが、このような機会を得て30数年前になってしまった現役時代のことを、あれこれと懐かしく思い浮かべてみた。

 先ず思い出すのは、きゃしゃな体つきだった私が入部することを心配した父を説得するため、当時の北端キャプテンと阿部副キャプテンに自宅にきていただき、いろいろと説明してもらったこと。

 進入部員の勧誘を熱心に行っていたとはいえ、練習後すきっ腹を抱えてよく来てくれたと感謝している。話が終わり、用意したカツ丼を平らげる速さと食いっぷりの迫力は圧巻だった。

 しばらくして初めて試合に出場することになり大張り切りで両親を呼んだはいいが、どう動けばいいのかもわからない1年坊主には荷が重すぎた。老獪でパワフルな社会人クラブに翻弄され、気がつくとグランドに寝ており心配顔の母親が顔を覗き込んでいた。

 後から聞くとちょうどグランドに到着したとき選手一人が倒れており、それが私だったとのこと。さぞかしショックであっただろう。その後観戦に来ることは決してなかった。

 当日は別チームともう一試合組んであり、二試合が終わったあとも内容が悪かったということで練習までさせられた。先輩たちは皆出ずっぱりだったにも拘らずよく頑張った。今考えてもあきれてしまう。

 試合について言えば、勝った試合より負けた試合のことをよく憶えている。一年のときの日本大学との試合、赤いユニホームがどれだけのものかも何も知らない私であったが、大挙する様には異様な迫力を感じた。始まってみれば強いのなんのって、こてんぱんにやられ、当方で少しでも良いプレーをするものがいれば寄ってたかって潰しにかかり、頃合を見計らって新人と交代する。そうなると実力からすれば負けるはずのない新人チームにもいいようにやられた。悔しかったが惨澹たる有様で、後からスタメンは二軍と聞いて日大の底知れぬ強さと、強さゆえんの一端を思い知らされた。

 勝った試合では三年の時の甲南戦が印象的だ。

 相手の右サイドがストロングサイドだったのだろう。右のエンドランが多用され私の守備範囲に走ってくるプレーが多く必死でタックルしそれがよく決まった。得点がどういう風に入ったか書けるほどの記憶はないが、結果は20対18で我がチームの勝ち、実に16戦目にしての定期戦初勝利とのことで嬉しかった。翌年は芦屋へ遠征し甲南のグランドで戦い連勝することが出来たが、非常に暑い日で終了後風呂屋で体重を量ったらなんと3kgも減っていて、それが私ばかりでなく 皆の話題になったことを覚えている。

 そして四年のとき、リーグ戦直前に行った明治大学との練習試合。メンバーも揃っておりチームワークも良く我々は二部優勝を目指して自信満々で、一段レベルの高いところに胸を借りようと明大に試合を申し込んだ。当時明大は日大に次ぐ実績を誇るチームで、特に桜田というQBのオプションは絶妙であった。

 このプレーは流石だったし、パワーもスピードも数段上で、終わってみると一方的な負け試合、おまけに負傷者まで出て自信はぐらつくは、メンバーは欠けるはですっかりおかしくなり、流れが変わってしまった。

 本当は実力がなかったといえばそれまでだが、最後のリーグ戦の分かれ目になった試合だったと思っている。

 当時の部長金沢教授に御骨祈り頂き、OB諸氏、部員等関係者全員の念願であった同好会から部への昇格が実現したのも、この時代である。金沢教授は平成3年12月に亡くなられた。改めてご冥福をお祈りしたい。

 納会の事、合宿の事等紹介したい話は尽きないが、こうして振り返って一番確かに、そして強く印象に残っている事はといえば、「やって良かった」という一言に尽きる。

 部員それぞれフットボールを通じて何かを得た。それは人によって違うし、印象も異なるだろうが、「やって良かった」という思いに変わりはないはずである。

 フットボールという素晴らしいスポーツを多くの人に体験してほしいし、「やって良かった」と思える仲間を増やすためにも、フットボール部の益々の発展を祈りたい。最後に四年間苦楽をともにした同期のメンバーを紹介し筆を置く。

橋本良一(LT) 通称ジラ、大きな声は天下一品。隣にいるだけで心強かったパートナー、冷静で責任感が強く四年の時はキャプテン。
酒井英行(QB) 通称クマ、中等科のときから腕力が強いので有名、肩も良く足の良いQBとして活躍、私にとってはパスをくれる大事な相棒。
永末洋(RT) 通称目玉、でかい目玉をギョロギョロさせ、男性女性かかわらず誰とでもすぐ友達になっちゃう超能力者、試合では熱くなり焼けちゃうタイプ。
橋本道宏(RG) 練習嫌いのナンバーワン、エンドランプレーのプルアウトブロックは破壊的な威力、彼のブロックで相手チームの何人が壊れたことか。
深谷亮三(HB) 練習の虫というか、努力の塊と言おうか、彼の熱心さには脱帽、四年のときはバックスとして活躍。
高橋誠一(LE) 酒井との息はピッタリで、四年のときは得意のショートパスが冴え9タッチダウン、二部リーグエンドの得点王。

そして忘れてはならないのがこの人。
須恵監督 日曜祭日ばかりでなく、平日でもそして夏の合宿にも顔を出し、熱心に指導された。なぜあれほどまでに燃えたのか? 須恵さんの熱意には頭が下がる。一度はリーグ優勝を果たし恩に報いたかったが達成できずに、誠に残念。

唯一の勝利は甲南定期戦

(1970/昭和45年度)

中島 喜盛(1971/昭和46年 卒)

 学習院大学アメリカンフットボール部の創部四十周年を記念して、昭和四十六年度の卒業生を代表して一言述べさせて頂きます。

 私どもがプレイしておりました当時と、現在のフットボールを取り巻く環境を比べますと、隔世の感があります。テレビをはじめ各種メディアでフットボールがとりあげられ、すっかり身近なス ポーツとして若い世代を中心に定着しているようです。この間における日本アメリカンフットボール協会をはじめ各関係者の皆様 のご努力に対し敬意を表す次第です。

 さて、昭和四十六年度のアメリカンフットボール部の同期生は僅か四名のみで、松本君、折原君、末次君と私でした。一年生か ら四年生全員で十五・六名という陣容であり、現在は百名前後のクラブ員を擁すると聞いておりますが、私どもの時代は、まず部員を集めることに大変な苦労したことが思い出されます。十五・ 六名の部員数となると、一・二名の怪我人がいることが常であり、チームを組むことが精一杯という状況でした。私ども同期生も、諸先輩同様に大学生活の全てをフットボールに賭け、大学時代の思い出はフットボール以外に無いのではと考えます。一つの青春時代をフットボールに賭けた事を悔いることはありませんが、キャプテンとして、後輩諸君に勝利の味をもっと味あわせてやれなかったかと、私の力不足を詫びる気持で一杯です。

 最後に現部員の皆様のご活躍を祈りつつ、次に迎える五十周年においては、学習院アメリカンフットボール部が更に発展していることを期待します。


不成績の責を負う私

(1971/昭和46年度)

斎藤 直良(1972/昭和47年 卒)

 我々の卒業年度の代表として、二十年前の事を書けとのお話があり、記憶も薄れ、不確かな面も多いが、赤面冷汗の思いで、(特に戦績を振り返ると)栄ある我等の代を紹介したいと思う。

 我々の時代は部員総数が常に二十名前後と少数精鋭であったが、同期も御多分に洩れず四名を数えるのみであった。

  内田信行(ガード、ラインバッカー、現福岡市在住)
  峯川 務(ハーフバック、現福岡市在住)
  奥沢 昇(マネージャー、現狛江市在住)
  斎藤 直良(ガード、現横浜市在住)
の以上であった。

 全員が今思うと異常な迄にフットボール中心の生活を送っていたと思う。従ってその後も学習院に残り勉学に、そして後輩の育成に当たったメンバーも少なくない。奥沢に至っては、輔仁会での業績は勿論の事、連盟でも幅広く活躍した事はよく知られている通りである。

 さて、肝心の勝敗は残念ながら、惜しい試合は多々あったものの公式戦で一勝もできない結果となった。特に春の甲南定期戦は、我々一年の時の初勝利(鈴木主将)から二年(橋本主将)、三年(中島主将)と輝く三連勝を飾っていただけに諸先輩から引き継いだ伝統を守りきれず今もって誠に申し訳ない気持ちで一杯である。しかしながら、あの三連勝に我々もいささかながら貢献できたのではないかと今でも自身を慰めることもある。なぜなら我々が三年の時の対甲南戦勝利は、その内容が素晴らしくパスプレー、ラインプレーとも面白いほどゲインし、まさに快勝であったことが良い思い出となって残っているためであろう。

 ここでメンバーの名誉のため同期各位の名選手ぶりと、その持ち味等について振り返ってみたい。まず、内田は九州男児(県立熊本高校出身)だけに決して弱音を吐かない不屈の根性の持ち主であり、プレーは鋭く攻守ともにチームの要であったと思う。峯川(市立船橋高出身)は、小柄ながら俊足、俊敏でありハンドオフでスクリメージラインを抜けるスピードは一流であり、ともかく速かったの一語に尽きる。奥沢(神奈川浅野学園出身)は、四年間マネージャーとして、学内外を問わず活躍し、その顔の広さと影響力は計り知れないところであった。リーグ戦の最終戦で、須恵監督の指示でスーツを着てプレー(ボールキャリアー)したことが同期にとって忘れられない想い出になっている。最後に斎藤(県立横須賀高出身)であるが、期待されながら不発に終わった感がある。今後とも現役時代の不成績の責を一身に負うこととなろう。

 ここに四十年史編集に当たり拙文を寄稿させて頂きましたが、この誌面をお借りし私どもに貴重な体験を与えてくださった当事の監督、コーチ、先輩、後輩の諸氏に 改めて厚く御礼申し上げます。大変有難うございました。


勝つ喜びを知る

(1972/昭和47年度)

津田 晴久(1973/昭和48年 卒)

 前年度は、後退もままならない15名前後の少ない選手で試合をしなければならなかった。そのため試合の後半にスタミナ切れでやられるパターンの連続で悔しいゲームが多かった。その反省から、昭和四七年度の我々は四月の入学式の前から新人のリクルートに力を入れた。結果、十一名という大量の新人の入部があり、総勢二十名を越すフットボールチームらしいものが出来た。

 春の定期戦は新人が戦力にならず、成績はいま一つであったが、秋の手答えを感じつつシーズンを終えた。夏を迎え霧が峯高原での合宿は、朝から晩までフットボール漬けのハードトレーニングを重ね、新人が戦力になる見込むがたつようになった。そして秋の第一戦は、9月2日駒沢第2グラウンドで、新加盟ながら優勝候補筆頭の桜美林大戦であった。雨上がりの熱い夏の日差しが両軍選手を悩ましたが、夏合宿のランニングの成果が特に出て、我々は我慢比べに勝ち、僅少差ながら勝利したときのスタンドの拍手は今でも忘れることは出来ない。

 第二戦は、網島グラウンドに於ける青山大学戦で、この試合の一週間前より、部内に風邪が流行り練習が出来ず、最悪のコンディションで試合に臨まなければ出来なかった。結果は思っても見ない〇-七十二という敗戦であった。密かに優勝を狙っていた我々にとってそのショックは後々まで尾を引き、立ち直りに時間が掛った。

 しかしその後、明治学院大、独協大には敗れはしたものの、成蹊大成城大には勝ち、三勝三敗でリーグ四位は確保した。リーグ戦終了後、東京大学から、京大との定 期戦のための練習試合の申し入れがあり、不完全燃焼の我々にとって気分晴らしになるということで受けることにした。その駒場東大グラウンドでの勝利も忘れることの出来ない一つである。

 当時の学生フットボールのレベルでは、ディフェンスは人数の関係もあり軽視しがちであった。しかし我々は監督の指導もあり、特に力を入れたのが、ディフェンスである。日本で初めて試合で4―4を使ったのが、我々であることを特に銘記しておきたい。それは当時創刊された、タッチダウン誌の特集記事『ディフェンシブ・フット ボール』に我々の考え方が現実型として取りあげられたのを見てもわかると思う。

 最後にその記事を紹介しておきたい。『ディフェンスの目的は相手側のゲインをミニマム(最低)に押さえることであり、この場合イコールTDに対応する意味である。ツウプラトンの困難な日本では守備よりも攻撃に力を入れるが、これは何もすう美を軽視してるわけではない。攻撃は時軍の選手の素質等によりフォーメーションを選ぶとして比較的自在性はあるが、守備は対象が相手チームにあたるため理想的な方法はいくら考えても持ち駒がなければ中途半端にならざるを得ないの現状である。だからこそチームディフェンスに力を注ぐべきである。(学習院大学監督談)

昭和四十八年度の卒業生は、主将でセンターの渕本君、副将でタックルの安室君、名コーターバックの成田君、ハーフバックの小俣君、そして主務でフルバックの私である。


関西遠征と終わりなき夜間練習

(1973/昭和48年度)

中尾 哲夫(1974/昭和49年 卒)

 学習院大学アメリカンフットボール部OB会・四十年史編集委員会からの要請文を机の上において、今日か明日かと延ばし延ばしにしていたところ、奥沢先輩から早く出せと電話で怒られ、やっと重いペンを取った次第である。

 前年の渕本主将時代に、もう少しのところで優勝を逃し、悔しい思いをしたことや、新人で参加した夏合宿の厳しさなど、色々なことがあるなかで、何を置いても思い出すのは四年の時の甲南大学との定期戦と、帰京してから目白のグラウンドにおける夜間照明塔下の「終わりのない夜間練習」である。(この照明塔は私が一年のとき、OBの学校への働きかけにより出来たもので、当時日本ではめずらしい設備だった。)

 事の起こりは国鉄(現JR)のストライキである。私たちの目白時代の昭和四十年代後半は、まだハードな労働運動が残っていた時代で、定期戦の遠征当日にストライキが予定されていたため、関西行きが危ぶまれた。前日のマスコミの報道によると、新幹線の運行本数はかなり少ないが何本かは運行の可能性がある。しかし動くのは何時になるか判らないということであった。どうしたら良いのか監督と相談した結果、東京駅の朝早く集まって待っていれば明日中には西宮に着けるだろうということになった。そして午前六時に東京駅集合を決めたのである。

 当日眠い目を擦りながら駅に向い、着いてみると全員で十五、六人のメンバーの内三年生の主力の三人が来ていないので、監督がいらいらしていた。八時が過ぎ二日酔いで三人がやっと現れ、全員が揃いほっとした。早くから並んでいたお陰で、十時過ぎの乗車率二百パーセントを超える最初の列車に全員座って乗ることが出来た。試合前日のコンディションを考えれば早く集まったことで座れたのであるから正解だった。

 次の日、五月三日の正午、ゲームは開始されたが、早々に前日の二日酔い三人組が、弛んでいたとは思いたくないが、怪我か体調が悪いのかリタイヤ、二、三日練習しただけの新人の岩岡君や小泉君を起用する羽目になった。当然試合にならず0-七十五の大敗である。次の試合が日大-関学戦で、日大篠竹監督の「学習院のような試合をするな」という激には、今だに忘れられない口惜しい思いが残っている。

 伝統ある甲南大学との定期戦は学習院大学挙げての行事であり、万難を排して参加する意義がある先輩の皆さんから耳が痛くなるほど聞かされていた。その上監督から、アメリカンフットボールはタイミングのスポーツである。タイミングとは時間を守ることにある。時間を守れない奴はチームの約束事であるフォーメーションも守れない。それでは勝利はない、と言われていた。

 以上の様な事から「時間の大切さを肌で知れ」と終わりのない夜間練習を監督から命ぜられたのである。私の主将としての統率力の無さから起きたこととはいえ、一生忘れる事のできないことである。

 この後遺症か、春の四大学戦と秋のリーグ戦は全敗。私の最終学年は惨めな結果で終わった。私の四年間のフットボール生活は、活躍出来た試合もあり、勝った試合もある。また負けた試合も多い。喜びも悲しみもあり、苦しみもあった。しかしフットボールをやって良かったと思う青春時代を忘れることはないだろう。


対甲南大学定期戦勝利の日

(1974/昭和49年度)

大倉 信生(1975/昭和50年 卒)

 私達の最も想い出に残る試合は春の対甲南大学定期戦でしょう。私が入学した時のフットボール部は、部員数が八名という今では信じられない様な小さな部でした。当時、部員数が少ない為に甲南戦の開催が危ぶまれるという様な状況でした。その為に、新入部員は入学式まえから毎日甲南戦に向けて練習をしなければなりませんでした。そして、三月、四月と二ヶ月間猛特訓を積み甲南戦に臨みましたが、試合 結果は100対0という惨めなものでした。それからは、どうしても甲南戦は勝てず毎年負け続けました。

 そして私達が四年生になりました。部員数も五十名近くに増え、今では常識となっていますが、当時では珍しいキッキングチーム、ディフェンスチーム、オフェンスチームが組めるまでになりました。特にディフェンスに関しては、前年より末次コーチの指導でフォーフォーディフェンスを取り入れて、リーグでも屈指のディフェンスを持つまでに成長しました。オフェンスに関しては、ラインとバックスがバランスよくパワーを持ち、パワーアイフォーメーション、ウィッシュボーンフォーメーションなど色々なフォーメーションを組めるまでになりました。

 ついに一年生の時の屈辱を晴す甲南戦がやってきました。試合の前日、甲南大チームが学習院グランドに調整練習にやってきました。私達は早々に練習を終え、甲南のスカウティングを始めて、非常にびっくりしたのは、甲南のディフェンス選手の一人が体重150キロ、まるで大相撲の小錦の様な選手がいたのです。そのうえショッキングな事は、オフェンスが今まで見た事もないフォーメーションでした。それはラインの片側がエンドとタックルしかおらず、もう片側にはガード、ガード、タックル、エンド、おまけにウィングが付くという変形フォーメーションでした。これは本当に驚きました。これでは得意のフォーフォーディフェンスをどの様にシフトしたらよいのか、全く見当がつかず絶望的になりました。

 甲南チームが引揚げた後に、私達は今は無き喫茶店タンネで、ミーティングを行いました。問 題はひとつ、あの変形オフェンスに対してフォーフォーディフェンスをどの様にシフトするかです。テレビでも見た事のない様なフォーメーションに対して我々一同は何の作戦もなく、只沈黙あるのみでした。喫茶店も閉店になりかけた頃に我がチームの智将杉浦がとんでもない作戦を提案しました。それは従来のオフェンスラインの中心はセンターであり、センターを中心にフォーフォーディフェンスをシフトしてきました。しかし、今回はセンターを中心に捉らえるのではなく、ワンポイントずらして、人数の多くいる方のガードを中心としてシフトするというアイデアでした。夜も十時近くになり、全員一致で、この作戦に決定しました。試合直前まで内心この様な幼稚な作戦で勝てるのか、全く自信がありませんでした。しかし、この作戦は見事に的中しました。

 試合内容はオフェンスでは学習院が最初にタッチダウンを挙げ、終始リードをし、ディフェンスも面白い様に止まりました。特にディフェンスに関しては甲南サイドはこのシフトに戸惑い、誰が誰をブロックするのかという基本的なプレイが全く、出来てなかった様子でした。そしてゲーム終了のホ イッスルが鳴った瞬間、100対0で負けた一年生の時からの悔しさが一編に吹き飛びました。この甲南戦の勝利を契機として、春の四大戦、秋のリーグ戦へと順調に勝利を収めて行く事が出来ました。その意味でこの一戦は大変貴重な想い出となる試合でした。


関東選手権に初出場

(1975/昭和50年度)

栗山 和三(1976/昭和51年 卒)

 記念史のことが気になりながらも、四十年史編集委員会からの要請文を机の上に置きっぱなしにしていたところ、一つ上の大倉先輩より電話があり、「お前もう書いたか」「いいえまだ書いていません」「抜けがけして先に書くなよな」「はいわかりました」そんなやりとりをした晩に須恵先輩、津田先輩より「早く書け」との督促電話を頂く。当時のことは忘れてしまっているが何か書いているうちに記憶も少しは戻ってくるのではないだろうかと思いながら筆を取った。

 フォーメイションが何だったかはよく分からないが、ヘルメットがぶつかりあった時の感触だけははっきりと残っている。それと試合でホイッスルが鳴った瞬間から発狂していたことはすぐ思い出せる。スポーツでは冷静さも必要だろうがそんなことは関係なしに、毎回頭に血を登らせて「このやろう殺してやる」。そんな感じでやっていた。戦績ははっきり覚えていないが、甲南戦は勝ち、リーグ戦は、さつきリーグで二位だった。七勝一敗か六勝二敗かよくわからないが青山学院大学には負けた。当時としては、体に恵まれた連中がそろっており、世良、中村は体重100キロを越し、 笹野、糟屋は180センチで90キロ近い体をしていた。クウォーターバックに漆原、フルバックに松田がいた。オフェンスは、パワーI、ディフェンスは4・4を使っていた。その年は、初戦から調子が良く、確か初戦は明治学院だと思うが、松田のオフタックル、何というプレイかは忘れたが、それが良く決まり初戦を勝ったことで波に乗れたように思う。現在のようにツープラトン制は無く、皆ほとんど出ずっぱりだった。青山にはどう負けたかはよく覚えていないが、点差は一本か二本差だと思う。リーグ二位となり、当時あった「関東選手権」に臨み、日大と当った。当日は朝から大雨で、駒沢第二が使用できない為日大のグランドで試合を行った。そのグランドは砂地同然で、ここで練習をやっていれば足腰が強くなるのも当然だと思った。結果は大雨で日大もパスが使えず、学習院も松田が走らせてもらえず、確か三十ー〇で負けた。松田はその年、正確なスコアリングは無かったものの相当なヤード数を獲得したはずである。

 もう一つ忘れられないのは、北グランドに照明塔ができた事。二年か、三年の時だか分からないが、あれができたおかげで日が暮れても練習が終わらずひどい目にあったことを想いだす。

監督 久保田正就
コーチ 末次孝一郎
昭和五十一年度卒業部員 笹野太志朗
  松田啓二
  中村達郎
  世良洋一
  糟屋治男
  漆原光彦
  大竹洋司
  渡辺善二
  浅田宗彦
  鈴鹿富士男
  栗山和三
  〔十一名〕

フットボールはツープラトン

(1976/昭和51年度)

岩岡 清(1977/昭和52年 卒)

 我々昭和五十二年卒業のメンバーは四十八年入学であり、当時は渡辺君・成瀬君・今村君・森脇君と私の五名が在籍したが、二年生になる時にはご一名が退部し、新たに小田嶋君が加わり、森脇君と私の三名になった。その後三年終了時には、森脇君と私の二名に減ってしまったのである。一年上そして一年下には多数の部員がおり、人数も戦力であることを痛感することがしばしばあった。

 我々が四年生の時のコーチは、末次孝一郎氏と漆原光彦氏が一年通して面倒を見て下さいました。末次さんが練習メニューを作成して下さり、それを基に漆原さんが北グランドで指導する方法で行なわれた。前年大変良い実績を残したIフォーメーションに少し変更を加えたウイングTを採用し、若山君・矢野君と私でバックスを組み、QBは林君と森脇君が交替でランプレー中心のオフェンスに移行していった。練習は長くても二時間半であったが、ほとんど動きっぱなしで中味の濃いものだったと思う。

 四年生になった時には部員数も 合計四十名程に増え、試合にも完全にフル出場する人も少なくなって来た。この頃にはニプラントを組むチームが徐々に増えてきている。

 私が心掛けていたのは、一つは前年のリーグ戦の順位を確保することは正直言って大変厳しい状況であったので少しでも上の順位を狙うことで、できる限り順位を落さないことであった。もう一つは、伝統的にキックオフリターンを許してしまう体質があると感じていたので、折角得点を取った直後のキックオフ時には必ずハドルを組み、気を引き締めることを実行した。最後に、四年間で一度も勝てなかったのが青山学院大学である。四年の最終戦で対戦したが大差で敗れた。このことだけが残念でならない。一年下の若山君・伊藤君 ・上野君・林君・加藤君をはじめ五十三年卒の人達の力添えがあって、リーグ戦三勝することができたことを深く感謝をしたい。ありがとう。次は甲南戦について記す。

 私達が一年に入学して間もない五月に、甲南大学との定期戦が西官競技場で行なわれた。中尾さんと池内さん四年生二人を筆頭に部員が何と、十一名しかおらず、入部したての渡辺君と私がスプリットエンドで交替で出場し、ルールも良く知らない状態で、ただ闇雲にダウンフィールドで久次にぶつかって行けと指示通り動くだけであった。当然大差で敗れた(八十点差以上で)。次の第二試合が日大-関学戦で、控えていた日大の篠竹監督がミーティングで「学習院のようになるな」という檄を飛ぱす声や観客席の回りから「お坊っちやんのフットボールだ」と言う声が今でも耳に焼付ている。この時の印象があまりに強烈であり、兎に角、毎年甲南戦だけはどんなことがあっても勝ちたいと思って練習に励んだ。三年生の時にはタッチダウンを一本取りパスインターセプトも二回やり活躍できたし、四年生の時は当番校で学習院グランドで行なわれたが、私が左のストレートハンドオフ、そして森脇君の右ダイブフェイクのQBのランニングプレイで二本のタッチダウンを奪い勝利した。在学四年間の対戦成績は二勝二敗で終った。


やるじゃないか学習院
  関東選手権対日大戦

(1977/昭和52年度)

伊藤 順一(1978/昭和53年 卒)

 四十年史に思い出をと言うことで、何を書こうかと考えてみましたが、卒業して 十四年、うろ覚えの思い出の中から、四年生の時に、秋のリーグ戦(さつきリーグ)で二位となり、関東選手権に出場した時のことを書こうと思います。

 青学と成蹊に負け二敗を喫したのですが、成蹊が青学、明学、桜美林と三敗したので、学習院が二位となり、関東選手権に出場することが出来ました。十一月六日、相手は日大、場所は駒沢大二球技場、観客はほぼ満員。開始して間もなく、日大が一本入れた後、学習院のオフェンスとなり、三年生の峯君のオープンプレイで一本入れ返した時、「学習院やるじゃないか」のスタンドのざわめき・・・・・ TFPを失敗して同点にはならず、終わってみれば、六十二対六の完敗でしたが、今でも忘れることの出来ない一シーンです。


「フットボール生活を思い返して」

(1978/昭和53年度)

北 久(1979/昭和54年 卒)

 私達が三年生の時チームは、リーグ戦で準優勝を果たし念願の関東選手権に出場、初戦で日本大学と対戦六対六十で数字的には大敗であるが、一時は同点に追い付くなど、当時最強と言われた日本大学に一泡吹かせ、篠竹監督を激怒させる程底力のあるチームであった。

 有能な四年生が多く抜けた後。私達は新チームを結成しリーグ優勝を目指し練習に励んだ。新チームの四年生を紹介すると、スピードと粘こいブロックが身上のG鈴木、パスキャッチもブロックも上手なTE渡辺、パワーとスピードを兼ね備えたRB矢野、オープンを走らせたら誰も止めることのできない俊足RB峰、球際に強くスーパーキャッチを数多く見せてくれたWR沼、練習を裏で支えてくれた有能なマネージャー泉田、そしてTに私であった。もちろん当時はツープラトン制でなく一人でオフェンスもデイフェンスもやらねばならず彼らはまた、オフェンスのみならずデイフェンスでも有能なプレイヤーであった。

 当時のチームは、サイズ的には恵まれていなかったが、その分をスピードと、テクニックでカバーしていた。オフェンスのフォーメイションはパワーIからのダイブ、カウンター、オフタックル、オプションが主流で、T90からはタイミングの早いスイープが主流であった。デイフェンスは,4-4-3の変形でDTが相手のGのショルダー一つ外にセットしていた。この体形からDTとインサイドLBがクロスしてブリッツをする「クロスファイヤー」、DEとのQBへのブリッツなどで変化を持たせていた。

 新チームの滑り出しは順調であった。春の甲南大学との定期戦は、我々の大勝であった。ラインとバックス陣のタイミングが良く、自慢のバックス陣が中央・オープンと縦横無尽に走りまくり、TDの山を築いていった。特にT90からのスイープで峰の俊足が遺憾なく発揮され、確か一人で六TDを奪ったと記憶している。当時私は、オフェンス、デイフェンスそしてキッキングゲームとフルタイムであったので、TDの後キックオフで全力疾走しなければならずバテバテであった。今だから言えるが、あまりにも峰がTDを取るので、峰に向かって試合は勝てるからもうTDしないでくれ、もうキックオフ走りたくないとお願いしたほどだった。また、四大学戦も記憶がかなり薄れているが全勝か一敗で乗り切ったはずである。

 春のシーズンを終え、短いシーズンオフも終わり、秋のリーグ戦に向かって夏の合宿に入った。場所は例年のごとく菅平高原である。菅平といえども真夏である。朝夕は涼しく湿度は低いものの昼間はかなり暑かった。練習は、午前中がブロッキングやタックリングなどの基本練習と、フルシーズン戦えるだけの体力作りがメインで、午後はラインとバックスのタイミング合わせと、フォーメイションのマスターを中心としたメニューであった。三・四年生は基礎体力もあり、合宿も初めてではないので力の抜き所も心得ているし、コーチ役も兼ねていたので、肉体的には一・ニ年に比べれば楽であったと思う。反対に一・二年は雑用、そして練習と、肉体的にも精神的にも苦しい日の連続であったと思う。

 しかし、この合宿が終わると彼らは心身ともに逞しさを増し、一人前のプレーヤになることがでるのである。私自身も四年間の合宿で一番記憶に残っているのは、やはり一年生の時である。合宿最後の練習が終わり、誰もいなくなったグランドで、一年生が「合宿が終わったぞ!!」と雄叫びを上げて部旗をかざしてグランドを走り回ったことや、誰かがグランドの横の火の見やぐらに登って大声を出して喜んだことが、今でもすぐに思い出せる。また、こんなこともあった。これも一年生の時であるが、練習の始まる前にダミーを宿舎からグランドまで運ばなくてはならない。早く着替えた者から自分の好きなダミーを担いで行くのであるが、ダミーの重い物軽い物、長いのや短いのまで色々ある。その日私は着替えるのに何故か手間取り、皆より遅れてしまった。倉庫に行くと通称「馬ダミー」と呼ばれる一番大きくて重いのと、普通のダミーが残っていた。私はラッキーと思い普通のダミーを担いでいこうとすると、峰が私よりも遅れてやって来た。峰は身長一六十センチ位であるが、私は反対に一八七センチもある大男である。「北たのむよ」と峰が言うので私は断れず「馬ダミー」をグランドまで運んだ。合宿は技術面、精神面の向上を計るのが目的であるが、また友情を深める場 でもあった。

 合宿も終わると秋のリーグ戦に突入であるが、成績についてはあまり話したくない。出足は順調だったが怪我人続出や、就職活動で四年生が試合に出れないこともあって三勝四敗の負け越しで終わった。特に最終戦の青山学院戦ではチームも満足に組めない状態であった。春の甲南戦とは反対に、青山学院のRB大谷に走りまくられ、TDのやまを築かれていった。彼はパワーランナーで一発や二発のタックルでは倒れずに、反対にかましてくるタイプであった。この試合の結果が学習院を桜の花にたとえて「学習院散る」という見出しで大谷が悠々とオープンを走っている写真といっしょに記事になったのを見て、全身から力が抜ける思いであった。私は卒業後松下電工インパルスで8年間プレーした。全国のトップレベルの選手とも戦ったが、RB峰、矢野、WR沼、G鈴木などのサイズ的には恵まれていないが、スピード、テクニックにおいては全国のトップレベルにあったと確信している。

 最後になりましたが、我々四年生を支えてくれた下級生に感謝申し上げるとともに、卒業後十五年も経過し、私の記憶も断片的になっているので、この文中に誤りがあり、ご迷惑をおかけするようなことがありましたらお詫び申し上げます。


さつきリーグ全敗最下位

(1979/昭和54年度)

宮田 良彦(1980/昭和55年 卒)

 この年より刊行された記録集には我々の非力さを物語る数字が並んでいる時の副賞(攻撃担当)で、コーター・バックが筆者である。

 攻撃はパワーIからオプションを軸に、守備は4―4であった。指導者は、久保田監督・世良ヘッドコーチ。特に世良ヘッドコーチは、情熱的指導者で合宿では全日程を我々と共に過ごされ、毎日曜日には必ず愛車のホンダアコードでグランドに来て指導していただいた。(我々は、おかげでアコードを見ると条件反射に顔がこわばるようになってしまったが・・・・・・)しかし、その熱意に我々は全く応えられなかった。

 断片的シーンは、今も鮮明に蘇ってくる・・・・・・甲南定期戦の西宮オプションからピッチ、タックルされつつ見ると無人のフィールドを行くHBの市来の後ろ姿が(これが唯一のTD)・・・・・・雨の大井陸上 独協戦 三十六―四十四フェイクパスでフリーのTE仙田が見事に胸に当てて落球。ベンチが全員ずっこけている情景。自分のドロップバックのスピードと同じスピードで侵入してくるノーズガードにサックされ、見上げると見方のラインの顔etc。

 まったくでないオフェンスに、寝言でプレイコールを言うまでになっていたが、今となっては、メンバーとのバカげた行動の思い出しかない。

 昨年を最後に同期はみな結婚をしたが、皆が集まる披露宴の席は、常にこのフットボール部でのバカ話繰り返された。卒業して十二年が過ぎても、それはエバーグリーンの話題である。四年前の夏、事故で急逝した市来をしのんで、同期会を催した。学習院フットボールの四年間に感謝しつつ、天国の市来を交えて、またバカ話に花を咲かせた。


リーグ戦連敗にストップ

(1980/昭和55年度)

仙田 秀実(1981/昭和56年 卒)

 五十五年度は春から苦戦が予想された。前年の四年生が九人も抜け小人数での戦いを余儀なくされたからからである。春のメンバー表をみると一年生を除くと十五人である。これに一年生を加えて、秋には五十三年来続いているリーグ戦の連敗記録をストップしなければならなかった。

 甲南戦を二十対二十で引き分けた後、四大戦は成城に十六対十四で辛勝、成蹊、武蔵には敗れ、公式戦を一勝二敗一分で終えた。この間ケガ人も出てQB小林も含めほとんどフル出場であった。秋に向けての戦力アップを図るべく春の締めくくりとして慶応と練習マッチを組んだ。相手は八十名を超す大所帯である。セレモニーでタッチラインを埋め尽くすトリコロールカラーを羨ましく思ったものである。ところがこの試合前半の二軍・三軍相手にリードをとってしまった。後半になり、慶応もあわてて一軍を投入して来て結局は十二対二十一で敗れたがディフェンスがよく健闘し秋へ向けて実りの多い試合であった。

 とは言えフルメンバーで十九人のプレイヤーである。練習もスクリメージは左右片方ずつしかできない。勢い練習はハードになり個々人のレベルアップが要求された。これは逆に常にケガ人を常にかかえることにもなり、常時十五人前後のメンバーで戦わざるを得なかった。これが学習院の限界を象徴しているかも知れないなどと思いつつも、スカウティングを通し明学、武蔵、そして春に勝った成城の三つには勝てると踏んでリーグ戦に臨んだ。

 桜美林、成蹊、青学と三連敗のスタートであったが、当初の予定通りであり、さほどショックはなかった。しかし次の明学戦で大雨の中、キッキングゲームのまずさから思わぬ敗北を喫して、かなり浮き足立った。これが敗け癖というものかなとも考えた。もしかしたら次の武蔵戦もとりこぼすのではという不安を持ちながらも結果は十六対六で辛勝。ここに十二試合振りにリーグ戦で勝つことができた。けっして内容のいい勝ち方ではなかったが、最後にパントを蹴った瞬間にタイムアップのホイッスルが鳴ったシーンは鮮明に焼きついている。結局この一勝がこのシーズン唯一の勝利であった。最終戦の成城との試合はポストパターンのパスをビシビシと決められ完敗、ラストフォーミニッツのホイッスルを聞いた時の胸を締めつける様な思いは今だに忘れることができない。


FOR・NEXT・TEN・YEARS

(1981/昭和56年度)

梅津 健一(1982/昭和57年 卒)

 創部四十年を祝うとともに、創部以来の諸先輩方の並々ならぬ努力があり今日を迎えられたことを、心からお礼申し上げます。

 私も卒業以来、久保田監督(昭和四十年卒)、宮田ヘッドコーチ(昭和五十五年卒)の指導のもと現役諸君と活動を共にしてきました。現在の大学アメリカン・フットボール界を取り巻く環境の中で、激しい競争を勝ち抜くためには、学校・OB、父兄、現役の全ての力を結集した総合力が必要と考えます。昨今のOB会活動は、飯田会長をはじめ、水野副会長、幹事、諸先輩方のご努力で活性化してきていますし、現役もここ数年父母の理解のもと着実に実力を着けてきていると思います。

 我が部のさらなる前進の為には何が必要か、次の三つが上げられるのではないでしょうか。

一、 指導陣のより一層の研鑚努力。
二、 才能を持った選手の発掘と、育て上げるチームのシステムと運営。
三、 部室、トレーニングルーム等の環境整備。

 この三つを念頭に、五十周年に向かってこれからの十年、学習院大学輔仁会アメリカン・フットボール部の「さらなる前進」に挑戦するのが現役指導にあたる者の使命だと思っています。


三部降格の屈辱

(1982/昭和57年度)

横山 靖(1983/昭和58年 卒)

 この年から、ヘッドコーチが宮田さん(五十五年卒)に代わり、新しい宮田体制でシーズンをスタートした。しかし、この年のメンバーは、四年生五人、三年生四人、二年生二人の計十一人であり、しかもこの内四年生一人二年生一人の計二人は前年度の怪我により、練習に参加できない状態にあった。普通、練習後の体操は、主将、副将が前に立ち、その前に四列縦隊に並ぶものであるが、何せ練習に参加する人数が九人では、四列縦隊などは出来ず、円になって行うしかなかった。

 そして、何よりも困ったことは、QBがいないことと、新入生が入ってこなければ試合が出来ないことであった。それまでの当部は、QBは二年に一人方針であり、本来であれば三年生から一人作るはずであったが、適任者がおらず、作っていなかった。(昨年、エースRB鈴木を急遽QBにしたて、何プレーかさせたことはあったが・・・。)しかし、あくまでエースRBであり、QBに変更するわけにはいかない。

 そこで、一年生の時に訳あって退部した三年生の永山に復帰を説得することとなった。ただし、説得に失敗することもありうるので、二年生の一人にQBの練習をさせていたが、何せ教えるほうもQBの経験が無く、本を読みながらの指導であった。

 大学の近くのデニーズでの二時間に及ぶ説得の効果があり、永山は復帰することとなり、やっとQBの目処がついた。しかし、それでもまだ十人しかおらず、試合が出来ない。だいたい新入生は四月の半ばから練習に顔を出し始め、後半から参加する。それでは甲南戦、四大戦に間に合わない!

 幸いなことに、この年の新入生の内、高等科出身の三人が春の練習から参加することととなり、やっと試合できる目処がついた。目処がついたとはいっても、新入生にフットボールを教えることが第一で、新チーム作りは後回しであった。新入生が順調にフットボールを覚えてきたので、次に新チーム作りを始めた。始めるにあたり、最初に行ったことはオフェンスのフォーメーション変更であった。従来当部が採用していたランプレー主体のパワーIはメンバー的にきつく、QB出身の宮田ヘッドコーチが就任したこともあり、新たにプロIを採用することとなった。

 このような状況のなかで、四大戦が始まった。(この年の甲南戦は甲南大学側の都合により中止)初戦の成城戦は、ディフェンスの踏ん張りにより何とか勝利をものにした。続く成蹊戦、前半途中でRB鈴木が肘を傷めて、退場したにもかかわらず、オフェンス、ディフェンスの頑張りによる余裕の勝利であった。最終戦の武蔵戦は、引き分けに終わったものの、武蔵大学と同率ではあるが、久々の 四大戦優勝となった。

 しかし、このチーム状態での四大戦優勝が、秋に悪影響を及ぼすとは誰も考えられなかった。夏の練習は、一年生の強化を主体において行っていたが、春の好成績に気をよくしていた上級生(四年生)は、自分たちのレベルアップをわすれていた。

 その結果、秋のリーグ戦は全くいいところが無く、全敗で、三部降格をかけた入れ替え戦出場という結果に終わってしまった。三部降格をかけた入れ替え戦は、創価大との戦いとなった。この創価戦も怪我で二人欠場し、苦しい戦いが予想された。三年生(T,OLB)一人が足首の捻挫、四年生(FB,S)が鎖骨骨折により欠場、先発メンバーの中にも膝の靭帯を傷めており、両面出場は久々という人間もいた。結果は、惨敗に終わり、三部降格となってしまった。

 試合終了後、全員が声も立てず、頬に大粒の涙を伝わらせている姿をいまだに忘れることができない。


三部優勝ならず

(1983/昭和58年度)

鈴木 英一(1984/昭和59年 卒)

 一九八三年(昭和五十八年)。それは苦境に立たされ泥にまみれた屈辱的なシーズンであった。前年十一月秋の納会当日に田中屋で来期主将を命ぜられた日から重大な一つの使命が課せられた。リーグ二部への復帰である。秋季リーグ戦でまさかの全敗、三部降格決定戦で創価大に敗れ八三年の三部が確定した。当時チームはオフェンスはグランドアッタク主体のパワーIからランパスのバランスのとれたプロI体型へ、ディフェンスは四―四から五―二―Rへとチームカラーの大改革を行っており、これをシステム化させ掌握することが八三年シーズンの第一の課題であった。新チームは三年生五人、二年生五人、一年生十一人と近年になく豊富な人数で二月よりスタート、標準を秋季リーグ戦に置き、オフェンス、ディフェンスのシステムの確立に励んだ。

 春、甲南戦は関西西宮球技場で試合を実施、チームの勢いの差は隠せず〇対二十七と完封負け。(甲南大はその年近畿学生リーグ兵庫ブロック優勝)四大戦は成城大が出場辞退で二試合となり武蔵大に 三十二対十三、成蹊大に十四対三十六と一勝一敗。又、前年三部で優勝し二部へ 昇格した亜細亜大とオープンゲームを実施、三部のレベルを図るべく臨んだが十二対四十二と思わぬ大敗。チームが未完成の状態であったこともあるが三部と言えども油断は禁物と全部員が感じると共に一抹の不安を残したゲームであった。

 リーグ戦を一ヵ月後に控え八月中旬菅平で夏合宿を実施、チーム力をどれだけ伸ばせるかの大きなポイントである。合宿は徹底的にやった。特に最終日、台風の影響で菅平周辺は暴風雨域に入り朝から大雨であったにもかかわらず桑田館前のグランドで予定通り練習実施。全員泥まみれ、練習後ヘルとショルダーを洗うのが大変だったが、とことんやり通し、やり尽くすことが当時のチームには必要であり、この結果が秋につながると確信していた。この時の台風は大型で、雨量も多く菅平の橋が決壊、翌日雨はあがったものの東京へ帰ることができず一日延泊した程であった。この日思わぬ休日となり皆自由に一日をすごした。まさか夏の菅平でダボスの中腹にある小奇麗な喫茶店でテニスギャルを見ながらのんびりお茶することがあるとは思っても見なかった。

 九月十八日、この日は雲一つない快晴で残暑の厳しい一日だった。我々の血と汗を充分に吸い込んだ北グラは数時間後のキックオフの笛を静かに待ち続けていた。今日は待ちに待ったリーグ戦初戦。暑い夏を乗り切った新人七人を加え、部員総勢二十八人はリーグ優勝を合言葉に、やるべき事はとことんやって自信を持ってこの日を迎えた。

 相手は今年から正式加盟のハワイでフットボール経験のある日系米国人が監督で春のオープンゲームで二部校に勝っている玉川大。ブロック内ではこの玉川大と東京学芸大の二校がポイントとされていた。午後二時三〇分愈愈キックオフ。勝手知ったる北グラで我々は所狭しと走り回った。特に四年は必死だった。QB永山が投げ、TE星野がキャッチ、G東野がオフェンスラインを引っ張り、DT鬼島が暴れまくる。そして自分もTBとして敵のディフェンス陣を蹴散らしゼブラゾーンを必死に目指した。しかし勝利の女神は我々には微笑んではくれなかった。十三対二十二痛恨の逆転負け、タイムアップの笛が無情にも北グラに響き渡る。まさか初戦で敗れるとは、皆これからと口にしながらも落胆振りは隠せなかった。

 その後は三連勝、一方玉川大も全勝でありブロック優勝は十一月六日の最終戦次第となった。この日同じグラウンドで我々が第三試合、玉川大が第二試合に登場。もし玉川大がこの対立正大学戦を落とせば我々が優勝の可能性もあるのだが客観的に見て確立は極めて低い。どちらにしろ我々としてはまず最終戦となる対学芸大戦で相手を完膚なまでに叩きのめすことが必須である。案の定、玉川大は立正大に七十七対〇で大勝し、ブロック優勝を決めた。雨が強く振り出した。グランドで胴上げをして喜ぶ玉川大を横目に我々はウォーミングアップを始める。屈辱である。悔しさと共に自分達の腑甲斐無さに対する怒りを感じていた。自分はアップの最中一人一人全員に声を掛けた。「学芸をつぶせ」と。意地であった。優勝は逃したが全体的に三部のレベルは低過ぎる。その中で行う本年最後の試合、学習院大学の力を思い知らせなければ気が済まなかった。来年のためにも。チームは燃えた。各々やるべき事をやりできる限りの事をした。各ポジションで任された事を確実にこなした時チームは必ず勝つ。それがアメリカンフットボールである。三十二対〇完勝であった。が、笑うことは誰もできなかった。優勝という本懐をとげられずやり残した事が余りにも大きかったからである。この日大学では院祭の最終日、試合後皆で大学に戻り酒を飲みまくったことは言うまでもない。

 アメリカンフットボールは奥が深い。やればやる程味わいは深い。自分も卒業後東日本社会人リーグ(三菱銀行)に参加して今年で九年目、フットボール人生十三年目となった。今年も過去にない新たな教訓が有り味わい深いものとなるであろう。この掛け替えのない人生の根底は学習院大学アメリカンフットボール部である。ここで改めてご指導頂いた監督、コーチ、諸先輩方々及びチームメイトに心より感謝申し上げると共に当部の益々の発展、後輩諸君の一層の奮起を心より祈る次第です。(対学芸大最終戦プレー、フリーフリッカーを胸に抱いて)最後に今般の部四十年史発行に当りご尽力頂きました皆々様に敬意を表すると共に心よりお礼申し上げます。


二部昇格果たせず残念

(1984/昭和59年度)

横田 雅信(1985/昭和60年 卒)

 前年の公式戦に於いて、関東学生二部への昇格を果たせなかった我々は、今シーズンこそ昇格を果たすという意気込みを持ちシーズンへ突入した。春のオープン戦ではチーム力をアップすることをメインに考え、オフェンスではパスを中心とする組み立て、ディフェンスでは昨年より取り入れた 5-2-Rの確立を目指した。このような中で何人かの主力選手の負傷により戦力をダウンしたまま秋の公式戦を戦わなければならない中、合宿においてある程度の成果を上げて公式戦へと突入した。

 第一戦である対東京学芸大学戦と最終戦である対ムサシ工業大学戦が大きな山場であると考え調整を行った。九月二日、第一戦である東京学芸大学戦があさ誌も霞の東洋大学グランドにてキックオフされた。当日は雨天でありグランドの状況も良好というものではなかったが、前半十三対〇とリードする中後半がスタートした。第三Qに七点を獲られ十三対七そしてラストクォーターで七点を返し二十対十三という得点経過の中、ラスト二ミニッツに入りほぼ勝利を手にしたという気持ちの油断よりその試合のラストプレーの東京学芸大のオフェンスで同点のタッチダウンをロングパスにて獲られてしまった。その後のトライフォーポイントのキックは、かろうじてブロックすることができ試合は二十対二十の引き分けに終わった。この試合結果より、最終戦の武蔵工業大学戦に勝たなければリーグ昇格は果たせないという苦しい展開となった。この試合の後は、立正大学・国際商科大学・文教大学と三勝し最終戦をむかえた。

 武蔵工業大学戦は、全員の気迫こもるプレーで前半十四対十四という一進一退の展開の中で後半がスタートした。後半ラストクォーターに立て続けた得点を許し十四対二十八となり力及ばず試合が終了してしまった。あと一歩のところで勝利をのがしてしまい最終三勝一敗一分という成績でシーズンを終了した。

 我々は、二部昇格という目標を果たせず卒業することになり、来年に夢をたくしてグランドを去ることとなった。シーズンの途中、練習中に主将である自分が負傷してやっと最終戦に間に合うというアクシデントの中で、チームをシーズンを通して見ていけなかった悔しい思い出が今でも自分の心の中に残っているが、最終戦後のロッカールームでのみんなの涙が、来年のシーズンを乗り越えてくれるものとして今でも思い出される。

 悔しい思い出、楽しい思い出が、今回この一文を書くに当り鮮明に思い出された。

部長 金澤誠
監督 久保田正就
ヘッドコーチ 宮田良彦
コーチ 梅津健一
昭和六十年卒業部員  
主将 横田雅信
部員 遠藤毅
  三橋雄二
  松島浩志
  大塚浩志
マネージャー 板倉典子
  (計六名)

二部昇格を果たした十一人の同期たち

(1985/昭和60年度)

深沢 成政(1986/昭和62年 卒)

 私たちが、アメリカンフットボール部に入部した一九八二年の三月には、噂で同好会に降格するのではないかとまで言われていた。当時、高校生であった小宮君と私とで挨拶に伺ったときには、プレイヤーが九人しかおらずゲームもできないような状態であった。このため、入学後の入部挨拶のつもりが高校の卒業式を迎える前に、練習試合に出ていたような記憶がある。その後、高等科から白山君、田村君、板橋君が入部。受験組で、内田君、笹本君、上田君、二木君、岡部君、二年生から二木君の強烈な勧誘で熊沢君が入部して、私たちの同期は十一人となった。

 今思い返すと、私たちがプレーしていた四年間は、ちょうど、学習院の大きな変換期にあり、史上初のものが多かった。例えば、人数や経験の問題がありはしたが、ワイドレシーバーとしては私と小宮君が初めてだと思う。

 また、四年生の時には、ワンバック(ミシガンスプレット)のオフェンス体制、オーディブル、ディフェンス5-2-Rの完成、二プラント体制、ユニフォーム一新と新しい取り組みを多数取り入れた。また、戦績もバラエティーで一年生時に二部から三部に降格、四年生時に三部から二部に昇格させた。

 四年生時には私たちが言うのも僭越ではあるが、たぶん史上五本の指に入るぐらいの最強のチームであったと思う。スタッツは、正式に残っていないが、最初の一戦は敗退したが、あとの試合はすべて大差で勝利を収めた。特に印象に残っているのは春季シーズンである。私たちの同期の板橋君が入院先で話をまとめ実現したのが、当時一部リーグに属していた中央大学との練習試合である。確か、七十三対十三ぐらいであったと思うが圧勝してしまった。当時のタッチダウンに大きな見出しで古豪復活と打たれ記載された。当然ではあるが、秋季の三部リーグ戦では全勝優勝をし、無事二部へ昇格した次第である。

 このときのオフェンスラインは、バランスが取れており私の記憶では、平均身長が一八〇センチ平均体重が八〇キロディフェンスラインは強力で、平均身長一八二センチ平均体重が九〇キロ程度はあった。

 このため、オフェンスの平均獲得ヤードは有に十ナードを超え、ディフェンスの場合ノーフレッシュダウンやロスヤードがマイナスになる試合もあった。

 このように華々しい話題も多いが、私たちの同期は、大変ユニークな人間が集まっており逸話も多くたまに集まっても話が尽きない。大した派閥もなく仲良く四年間を過ごした。

 このユニークでもありプレーヤーとしての最高の同期に敬意を示し、以下に各人を紹介してみたいと思う。

♯4 小宮克己 DB 一六〇cm 六五㎏
高等科出身。中学高校とラグビー部に所属。ポジションはフッカー
中学時代から筋肉トレーニングに凝り、当時胸囲が一一〇㎝はあった。性格は一本気。自分に厳しく涙もろい。(最終戦のときも泣き崩れていた。) 現在、趣味が職業になり一九九〇年/九一年/九二年と全日本ボディビルダ-選手権で準優勝を飾る。

♯10 板橋圭介 QB 一七〇㎝ 七五kg
高等科出身。高校時代軟式野球部に所属。ポジションはセンター
肩が強く、判断力も良い名クォーターバック。根が凝り性のせいもあり、フットボールをよく研究していた。先輩のものまねが得意。宴会はいつも笑いの中心。いつもシャワーから出るのが遅く、みなから文句を言われる。
現在、日本生命勤務。現オフェンスヘッドコーチ

♯25 笹本真志 SE 一七五cm 六五kg
県立佐原高校出身。高校時代陸上部に所属。幅跳び、短距離の選手。
先輩のものまねが得意。外見は非常に良いが話すとダサいことから、ダサモトと言うニックネームを持つ。コースを走らせると非常に早くディフェンダーをぬく技術を持つが、フリーになると球が取れないと言う欠点もあった。
現在、資生堂勤務。

♯41 白山 勉 R 一七〇㎝ 七五kg
高等科出身。高校時代ラグビー部に所属。ポジションはプロップ
プロレスが好き、内面に燃える部分を持ち、あまり表に出さないタイプ。主将とディフェンスキャプテン。プレーは冷静沈着。体は小さいほうであったが確実にとめる技術を持っていた。昔から私生活を秘密にすることが得意。現在の奥様は、現役時代の女子マネージャーで結婚するまで誰にも気づかれなかった。
現在、日清製粉勤務。

♯53 田村明徳 LB 一七三㎝ 七〇kg
高等科出身。高校時代サッカー部に所属。ポジション・・バックス
運動センスは抜群。猫背のため体が大きく見えないが、スーパーラインバッカ-との異名をもつ。GCIAと言われるほど事情通。恋愛事から逸話まで学内の人々の情報をいつも持っている。また、無類の凝り性なんでも知っているし、特にゲームのコレクターでは有名。
現在、松下電器産業勤務。現ディフェンスコーチ。

♯56 内田和宏 RT 一八〇cm 八五kg
神奈川県立鎌倉高校出身。高校時代はサッカー
外見は、やくざ。正確は温厚で、蚤の心とも言われる。途中からプレースキッカーフィールドゴールを担当、正確なキックが信条。数々の逸話を作った人物。レポートを提出する場所が学内の行ったことのない場所であったため、書き出す前に下見をしに行ったことは、同期のなかで有名。また、無類の奇麗好きで、練習後、着ていたものをいつも奇麗にたたんでシャワーを浴びていた。練習で、二日間同じものを着たことがない
現在、野村証券に勤務。

♯77 熊沢 剛 RT/DT 一八〇cm 九九kg
都立豊多摩高校出身。高校時代ラグビー。ポジション・・№8
一部との試合で相手に一度も取れなかったと言わせるほど、重く強い。二木の勧誘で二年生から入部、あり余る体力をいかんなく発揮、私生活でも行動力があり、二木とつるみ数々の悪行を行うが、根は真面目。二木の逸話の情報源は彼。
現在、キャノン勤務(ロンドン転勤)

♯87 上田 寛 SB 一七〇㎝ 五〇kg
県立新潟高校出身。高校時代帰宅部
一年間自宅浪人生活を送ってきたため、入部してきた時には、自分で走っていて、足がもつれて倒れるほど体力が、落ちていた。同期の中で一番最初に退部すると言われた男。持ち前の根性と運動センスが三年生より発揮され、四年次にはエースへシーバーとなる。タックルを受ける姿は、さしずめ交通事故。怪我が少ないのが不思議であった。
現在、新潟労働金庫勤務。

♯88 深沢 成政 TE 一八三㎝ 八三kg
高等科出身。高校時代ラグビー部(二年間のみ)ポジション・・ロック
現在、松下通信工業勤務 現コーチ

以上、十一人が同期である。四年間アメリカンフットボール生活を、楽しい思い出としてくれた十一人の同期、諸先輩方の今後益々のご発展を祈り、エールを送る。


現役の頃の思い出

(1986/昭和61年度)

正田 均(1987/昭和62年 卒)

 皇太子殿下・小和田雅子さんのご婚約と、学習院大学アメリカンフットボール部創部四十周年が重なり、本当におめでたく嬉しく思います。

 早いもので私も卒業して六年が過ぎようとしています。たまに北グランドへ行って練習を見ていても、現役からは全く相手にされないことに一抹の寂しさを感じています。現役の頃の思い出は、楽しいことも苦しいこともありましたが、そのすべての経験が今社会に出てからも貴重な財産になっています。個人的に苦しかったのは一年生のときでした。私は春、ろくな練習もしないうちに指を骨折、変形してしまい、半年間休部してしまいました。我々の同期は軟弱者が多く、次から次へと骨折者が後を絶たず、また練習以外の雑用もチョンボが多く、ずいぶん先輩に怒られました。練習が終わった夜九時頃、誰もいない広いグランドでたった二人でのトンボかけや、シャワー室が締められてしまい、汚い格好で行った目白湯……。もうあの時には戻りたくないと思っていますが、いい思い出です。

 三年生の時、その年雪が多く、春はグランドが使えなかったので、ヒンズースクワットを何百回もやったのも、けっこう涙物でした。一番嬉しかったのは、三年のとき甲南戦で逆転勝ちしたことと、四年次の公式戦の第一戦で、その年優勝した上智に勝ったことです。特に上智戦は残りワンプレーの逆転フィールドゴールでの勝ちでした。スカウティングに来ていた東大も「さすが学習院はかっこいい。」と言っていました。

 その他、三年の時の合宿打ち上げ時の花火戦争。先輩たちとビル掃除のアルバイトをやって大笑いしたこと。たった五人しかいなかった我々同級生全員でアメリカ旅行に行き、ポン引きにボラれたこと等走馬灯のように蘇ります。今、あの頃を思い出し、エネルギッシュに何事にも頑張っていこうと思っています。以上、今だに彼女のいない正田です。


宮田イズムとは何か

(1987/昭和62年度)

星野 利幸(1988/昭和63年 卒)

 まず、四十周年を迎えるにあたり、当部を創設し、これまで築き上げてこられたOB各位に深く感謝申し上げます。また、現在では部員約百名にものぼる学習院大学輔仁会の中でも最大の組織になったことを我々も大変誇りに思うと共に、ますますの発展を祈るばかりである。

 さて、我々六十三年卒業生も卒業以来チームを応援したり、コーチとして指導したり、あるいは、いまだ社会人で現役として活躍していたりと、何らかの形でフットボールに係わりを持っている者がほとんどである。その共通の認識は、「フットボールが好きだ」という一言であり、この認識はたぶん、現役時代から育まれ、社会人となり再確認をし、その思いを強くしていることだろう。それは、我々がフットボールから様々な事を学び、何ものにも換えがたい満足感を得たからであり、フットボールのみがあの時の興奮へ我々を誘ってくれるからだろう。

 では、いったい我々が全てを注いだアメリカンフットボール部とはいかなるものであったのか。

 近年の学習院大学アメリカンフットボール部を理解する上で、スタッフの存在は忘れることができない。久保田氏をはじめ、宮田氏、梅津氏が中心となってチームを支え下さった。特に宮田氏は長年に渡り、ヘッドコーチとしてご活躍頂き、ご指導を賜わった。あえて、学習院の今のフットボールはイコール宮田イズムといっても言い過ぎではないであろう。

 では、宮田イズムとは何か。それは「フットボールを愛すること」「チームを愛すること」「チームメイトを愛すること」であった。そして、フットボール・クレージーを作ること、フットボール・クレージーの集団(イコールチーム)を作ることこそが、宮田氏が目指したものだったと理解している。その意味からすれば、我々は宮田イズムの申し子とも言うべきであり、皆がフットボール・クレージーに成長していった。

 我々は今でも「フットボール・クレージー集団」それが学習院大学アメリカンフットボール部の目指すチーム像であると信じている。

 最後になりましたが、現在を含めチームの為にご尽力頂きました方々に再度感謝申し上げます。


選手がくれた感動の数々

(1987/昭和62年度)

白山 理恵子(旧姓辻本 63法)

 試合前のハドル。一つの塊になっての喚声。八十人もの選手たちの雄雄しい声。緊張感がみなぎる。一番好きだった瞬間。先日、結婚式の披露宴で彼らのその声を久しぶりに聞いた。

 家であのころのスコア(プレー・バイ・プレー)を広げてみる。三、四年の二年間につけたスコアはすべて残っている。紙の色はあせ、黄ばんでいるが、どれを見ても当時を懐かしく思い出させる。

 スコアをつけることもマネージャーの重要な役割。試合後のミーティング時や、公式記録として協会への報告に欠かせない。

 目が幾つも欲しかった。ボールのある地点、ダウンと残りヤード、ラン・プレーかパス・プレーか、だれがボールを持ちどんなコースを走ったか、タックルはだれ・・・などなど。一回のプレーは一瞬で終わる。書き込んでいる最中に次のプレーが終わってしまう。目でボールを追うのが精一杯だった。あまり正確にスコアをつけられなかったなあ。

 あ、この試合、対上智大戦。四年間で一番印象に残っている。八六年九月七日、日曜日、晴れ。秋季リーグの初戦。十四時二十六分キックオフ。第一クォーター、上智先制、0対7。第二クォーター、学習院反撃、7対7で前半終了。第三クォーター、両校得点なし。

 そして第四クォーター。上智が加点、7対14。残り三十秒で学習院のパスが 決まりタッチダウン。13対14。ここでPAT(ポイント・アフター・タッチ ダウン)をキックでなくプレーで決めれば2点で逆転。しかし失敗。負けたと思った。

 ところが彼らは諦めなかった。オン・サイド・キック。これをリカバー、学習院再度攻撃権を獲得。もう時間がない!時間切れ寸前、二十八ヤードのストレートパスが決まった。狂喜乱舞!だが残りは数秒。上智二十ヤードからのフィールドゴール。決まれば3点。先輩の女子マネージャーと祈った。苦しいくらいの緊張。キック!みんながボールの行方を見守った。16対14。奇跡の逆転だった。大歓声の中、涙が止まらなかった。あの瞬間はいまでも目に焼き付いている。同期の大活躍だっただけに、いつまでも忘れることはないだろう。

 残り三十秒からのこんな逆転劇はめったに見られない。練習とチームワークの たまものだろう。思い返すと同期との会話はフットボールばかりだったと思う。学食でも、喫茶店でも、居酒屋でも、教室でも・・・。フットボールは頭を使う。ひまさえあれば、オフェンス、ディフェンスのパターンの研究、そして練習。実に熱心だった。

 彼らのほとんどは社会人になっても、なんらかの形でフットボールに接しているらしい。あの楕円形のボールを子供に持たせ、楽しそうにあやす姿が目に浮かぶ。

 マネージャーの役目は、ボール拭き、怪我の手当て、お弁当作り(甲南戦との 定期戦では、先輩と二人でサンドイッチを三十斤こしらえたこともあった)。ほかに部費の管理など・・・。つらいこともあったが、つらいことを忘れてしまうくらい、本当にたくさんの感動をもらった。マネージャーとして四年間、アメリカンフットボール部の一員でいたことをとてもうれしく思っている。このスコアは、いつまでも大切な宝物だ。

 入部の時、マネージャーは四人だった。今は十数名だそうだ。仕事の中身も少しずつ変わったことだろう。しかし、選手たちが数え切れない感動を与えてくれることには変わりがないはずだ。マネージャーでしか味わうことができない感動を、いつまでも大切な思い出にしてほしい。

 こんど試合があれば、久しぶりにグラウンドに足を運んでみよう。きっとまた、大好きなあの声を聞くことができるだろう。

(桜友クラブ創刊号より)


忘れられない一年生時の二部昇格

(1988/昭和63年度)

黒木 秀文(1989/平成元年 卒)

 一年生のとき、アメリカンスピリッツと格闘技へのあこがれからアメリカンフットボール部へ入部した。当時の我が部は、関東フットボール協会三部リーグに所属し、我々の第一目標は二部復帰を必ず果たすことであった。この年入部した一年生は十四名全員高等科出身と、過去にないめずらしいケースであった。どうゆういきさつで三部にいるのかは、当時一年生の我々にはよくわからなかったが、当時の三部リーグといえば一年生の我々から見ても決してフットボールとはいえないほど、人数も、設備も、そしてシステムもできていないチームが多かった。一方、我が部のメンバーはというと、人数こそ四十五人余りと現在の八十名以上の定着したジェネラルズよりは遥かに少ないが、二木先輩や、熊澤先輩を初めとする大きなフロントメン、富田先輩や古川先輩を中心とする二年生バックス陣はすごかった。また、三部としてはめずらしくパス中心の攻撃としてのワンバックなど、宮田ヘッドコーチの指導するパッシングオフェンスは、最終的に非常によくまとまったチームが出来上がった。

 その年の春、甲南大戦、四大学戦を共に勝利の快挙を果たし、オープン戦の最後の試合では、一部リーグ所属の中央大に対し七十三-十七という大差で、文字通り力でねじ伏せる格好の試合が出来るようになった。この大差での勝利が秋のリーグ戦全勝優勝、二部復帰への大きな自信となったのではなかったかと思う。

 この優秀な四年生の残したものは三部優勝ということだけでなく、特にフロントラインメンとしては、四年間のフットボール部におけるあたりの基礎を作ることができたことを感謝したい。

 二年生の時は、大きかったフロントメン、QB・WR・DBなど中心選手が抜け新四年生が四人しかいないということで、チームの中心は三年生、そして二年生の成長に期待するという中で、まずは二部定着を目指すというものだった。フットボールで勝つにはシステムを作ること、そのためにはどうしても人数が必要と、リクルートに力を入れるようになった。その結果、経験者の高橋君、西迫君、本場アメリカでプレイしていた中尾君を含む総勢二十名余りを獲得することができた。この年、今でも記憶に残るのが、秋のリーグ戦でうちには負けたがその外のチームに全勝して一部昇格を果たした上智大学との一戦がある。タイムアップぎりぎりに当時キッカーの大野先輩のフィールドゴールが決まり決まり勝ちに結びつけることができた試合は非常に劇的であり、翌日スカウティング会場となった駒沢球技場でも話題になった。昭和六十二年度は、我々も三年生としてのシーズンを迎えチームの中心的存在として四年生をバックアップする形となっていた。この年もリクルートを春の第一イベントと考え、総勢二十六名の新人を獲得することができ、チーム全体としても七十五名、この年より完全にツープラトンシステムがとれる様になった。チームが大世帯になった分、選手の管理にそれだけ難しくなったが、各ユニットごとの練習がようやく充実してできるようになったのもこのころからであろう。ディフェンスの方も大久保先輩によるシステムで、5-2、4-3ディフェンスを使い分け、秋のリーグ戦で、宿敵独協、東大にこそ敗れはしたが、通算で四勝二敗とようやく二部優勝も夢ではないという内容になってきた。

 早いもので四年目のシーズンを迎えた。前年度リーグ戦三位と過去最高順位となった我々は、今シーズンこそ二部優勝に大きな期待をかけた。この年は前年ブロック優勝の東大の外、独協、東洋、駒沢、亜細亜、帝京と対戦するDブロックの所属となった。

 春の甲南戦、三十五-四十九と残念ながら敗れはしたものの、QB大島からWR住へのホットラインのパスがいいところで再三に渡り成功し、一時は逆転勝機もあったが、当方のディフェンスの仕上りに少々精彩を欠き、この結果となった。

 合宿地として二年目になった山中湖忍野村での合宿を終え、大きな怪我人もなくリーグ戦に入った我々は、初戦駒沢に辛勝したのち、当時成長著しい帝京に敗れリズムを失い、続けて亜細亜にも敗れ独協、東大には、結局歯がたたず、最終戦の東洋にこそ意地の勝利で、二勝四敗と残念な結果となってしまった。

 近年フットボール人気が高まる中、ジェネラルズも一昨年は二部優勝を果たした。私共の夢である一部昇格を目指し、現役諸君はなお一層頑張ってもらいたい。

昭和六十三年度卒業部員

主将 黒木秀文
副将 渋沢修
副将 住幸隆
主務 石動谷晴広
部員 大島寛也
  稲畑貴雄
  山藤大地
  野口恭男
  上原毅
  中原章雄
  渡辺弘樹
  稲崎進一郎
  神戸純
  高石雄史
  吉田守泰
  (十五名)

三位は確保したシーズン

(1989/平成元年度)

高橋 誠(1990/平成2年 卒)

 前年度(一九九八年)は学習院大学アメリカンフットボール部が創部以来最強と云われた。しかしリーグ戦の結果は(二勝四敗五位)と思わぬ成績に終り、何が原因か不安な気持ちで春を迎えた。

 春のシーズンは対甲南大定期戦(〇―二十一)の敗戦、四大学戦二勝一敗二位と、卒業生の穴が埋めきれず不本意な成績であった。秋になり,リーグ戦は九月十五日優勝候補筆頭の青山学院大との第一戦を二十三対十三と勝ち、気分を良くして、第二戦(十月一日)亜細亜大戦(二十四―七)と連勝した。しかし昨年に比べ本当の力がチームになかったためか、拓殖大(〇―二十三)、防衛大(十八―二十一)に連敗、優勝の望みはなくなった。その後、宇都宮大(二十九―十三)、関東学院大(四十九―八)と連勝、三位は確保した。トータル記録を見ると頷ける結果である。

 現在私は、鹿島ディアーズのセンターとしてプレイを続けている。企業チームなので仕事が優先で、練習時間も限られており、厳しい環境である。しかし誰もが心からフットボールが好きで、このチームは俺たちが支えているんだというプライドを持ち、トレーニングや練習に過去の一流選手だということを捨て、打ち込んでいる。一緒にプレイしていて学習院時代は甘かったんだなあとつくづく感じるこの頃である。

 最近は現役諸君も一生懸命練習に励んでいると思うが、成績の方はいまひとつ壁が破れないようである。尚一層の精進を望みます。


活字にならない物語も

(1990/平成2年度)

井上 陽士郎(1991/平成3年 卒)

 私だけがこの年の事を書くのは、いささか気が引ける。なぜなら色々な思い出が部員の数だけあるからだ。これから述べることは飽くまで私一個人の勝手な感想である。よって多数の「お前それは違うだろう」という声があるのを承知した上で、私のへたくそな文章を読んでもらいたい。

 春のシーズンは全敗した。甲南戦の連敗記録を更新し、四大戦は最下位に終った。この惨めな成績の裏には理由がある。リザーブと下級生の育成という大きな目的があったのだ。

 近年、やたら部員数は増えたが、どのポジションも一軍と二軍の力の差が大きかった。一軍の誰かが欠場するとその穴を埋められないまま、試合に負けていた。そんな層の薄いチームから脱却したくて、ほとんどの選手を試合に出場させ、個人個人の能力を伸ばそうとした。

 下級生にとって試合に出るのは最高の喜びだろう。フットボールをもっと好きになれ、練習にも熱がこもってくる。試合に出るのを楽しんでもらえればそれで結構だ。だが、上級生は違う。たとえ自分が出場していなくても、チームは負けたのだ。このチームは弱いのだという事実と付き合っていかねばならない。さらに、そこから各人の弱さについても深く考えるべきである。それをふまえて練習すれば、必ず勝てるチームになると私は信じていた。

 そして秋。誇れる結果もあげられず終わり、優勝できずに、私たちはヘルメットを脱いだ。この秋のシーズンについて、私は書くべきことがない。と言うのはあまりに速く時が過ぎ去ってしまい、大概のことは覚えていないからだ。だが、一つだけ色はあせたものの頭に残っている話がある。それは前年の試合中に足を骨折したQBの佐藤秀照君についてだ。彼は一年間のブランクを経て、秋の途中から試合に参加できるようになった。このことはチームに好影響を与え、選手の意気を高めた。少なくともオフェンスの人間にとってはそうであったと記憶している。

 他にも多くの選手が怪我をし、強い精神力で復帰を果たしてきた。その度にチームに明るい希望を持たせた事もここに記しておく。楽しい思い出はなかなか見当たらないが、思い出すのは反省と心配ばかりだ。我々は先輩の見習うべきところがわかっていただろうか。後輩は我々の愚かだった所を見抜き、その轍に決して足を踏み入れてはいけないことに気付いてくれただろうか。特に先輩に対しては、もっと彼らのためにすべき事があったと後悔している。

 最後になるが、私達がフットボールを続けられたのは、やはり多くの人々の情熱と協力があったからだと思う。監督、コーチ、先輩、後輩に改めて感謝したい。

 この四十年史の中には、チームに携わってきた人々の写真や名前が数多く載っ ていることだろう。どうか彼ら一人一人に話しかけてあげてほしい。  記念史は印刷された部分ばかりではないのだ。一人ひとりの心の中に刻まれて いる物語もぜひ読んでもらいたい。


学習院ジェネラルズに望む

(1991/平成3年度)

吉野 伸治(1992/平成4年 卒)

 我々四年生時の1991年は、変革の年であったと思う。それは我々が経験してきた三年間の練習内容とか方法などを、より合理的に、より効果的に変えたことである。このことはチームを強く、そして一部校に劣らないものにするための大きな危険を伴う賭けであったかもしれない。しかしこの改革のおかげで勝つために一番大切なチームの一人一人の意識に変化が生まれ、その結果桜美林大学他 に勝ち、学習院大学初の二部のブロック優勝を全勝で飾ることができた。しかし 残念ながら一部昇格はならなかった。

 例年の様に、四年生中心のインスタントなチーム作りではなく、毎年優勝出来得るチームを常に考えてもらいたい。これは誰かに考えてもらうのではなく、自分達自身で考えなくてはならない。今までの様な受身の姿勢は捨てて、自ら積極的に強いチームを作るという姿勢で日々努力していって欲しい。まず自分自身で考え、チームメイトと納得のいくまで激論を交わし、チームメイトにとって一番よいものを見つけ出し、「アクションを起こす」このことが大切であると思う。また同時に一人一人がゲームに勝つという執念と、自分自身に対しプライドを持たなければ勝ち残っていくことは出来ない。

 最後に、学習院ゼネラルズが関東大学一部リーグの常勝校となり、甲子園ボウルに駒を進めることを期待している。


二部優勝決定戦レポート
(秋季リーグ戦 第5戦)
(10月21日 川崎球場)

(1991/平成3年度)

宮田 良彦(元ヘッドコーチ)

 シーズン第5戦 桜美林との一戦は、互いに全勝同士・ブロック優勝をかけての一戦になった。

桜美林は、1・2部制が引かれてから10年間1部リーグに所属し、昨年、筑波大に入替戦で敗れ、初めて2部降格となった強豪である。USCを思わせるユニフォームとパワープレイは今年も健在である。

 この日早くから三塁側につめかけたOB・学友の見守る中18時30分に学習院のキックオフでゲーム開始。桜美林は10ヤードから好リターン、43ヤードまで戻す。桜美林は、このファーストシリーズを57ヤード11プレイでTDにむすびつけ0-7。学習院のディフェンスに危機感が漂う。

 それぞれパントをしあった学習院の2シリーズ目、これも効果的なゲインを得られず自陣31ヤードからパント。しかし、このパントを桜美林リターナーがファンブル。学習院がリカバーして桜美林陣31ヤードから再び攻撃権を得る。このチャンスに学習院オフェンスは、3プレイ目に2年生TB#32神代が14ヤードを走りきって見事にTD。7-7の同点とする。

 2Q学習院・桜美林ともに一進一退を繰り返した後、学習院が45ヤードから蹴り込んだパントを再び桜美林リターナーがファンブル。桜美林陣14ヤードで攻撃権を得る。再度のチャンスに3ダウン6ヤードからプレイアクション・パス をQB#7福井がWR#24斎藤にヒット。TD。14-7と逆転して前半を終える。

 3Q立ち上がり、桜美林は学習院の攻撃を3回で断ち切ると、自陣24ヤードからドライブ。まるでボディーブローのようなランプレイを繰返し、76ヤード14プレイでTD。しかし、同点と誰もが考えたTFPをスナッパーがミス。14-13。

 学習院の後半3シリーズ目もファストダウンが取れずパント。しかし、絶好調の#2パンター田代が桜美林陣4ヤードへの絶妙のパント。続く桜美林の攻撃ファストダウン10 TBオフタックルでロングゲインかと思われたときに、背後からのタックルでTDがファンブル。この日3度目のファンブルも学習院がものにする。3度目のチャンスは、反則でTDに結びつかなかったが、23ヤードFGを1年生#94キッカー菅原がきっちり決めて17-13とリードを広げる。

 すでに第4Qにはいり、桜美林は自陣36ヤードより必死の攻撃を展開。またのランアタックを執拗に繰り返す。学習院陣23ヤード4ダウンに2ヤード残してのギャンブル。このゲームを決めるこのプレイで、桜美林はなんとQBとCのエックスチェンジ・ミスを犯し4度目のファンブル。攻撃権は、学習院に移り残り時間は1分数秒。学習院は、残り時間を消化し、優勝を決めた。

 この日の学習院は、何度もの危機に耐え抜いたディフェンス、2度のパントファンブルをものにしたキッキング、3回のターンオーバーを全て得点に結びつけたオフェンスと攻守蹴の歯車が完全に噛み合い今季最高のゲームを行った。

 また、ただのツキだとみなされがちな相手のミス(4回のターンオーバー)の続出も、春からの周到なスカウティングと2度にわたる川崎球場での実地練習などの背景があってのことである。川崎球場のライティングが暗いことを利用してのハイパントの作戦がそのまま2度のファンブルを誘い、底冷えする球場を考えての温風機の設置がキッカーの足を、ホルダーとQBの手を暖め続けた。

 このような完全な準備をなしとげた久保田監督・梅津ヘッドコーチを始めとするスタッフに敬意を表したい。


平成四年度のシーズンを終えて

(1992/平成4年度)

木村 順一(1993/平成5年 卒)

 平成四年度は、我部の創立四十周年に当たる記念すべき年でありました。二月の下旬にスタートした春のシーズンは、対甲南大学定期戦敗戦、四大学戦一勝二敗の三位という決して満足のいく結果ではありませんでした。

 夏の忍野村の合宿を経て秋のリーグ戦に入り、初戦と第二戦はまずまずの結果を残すことができましたが、第三戦以後、スターターに怪我人が続出し敗戦が続きました。最終結果としては二部Bブロック三勝三敗の五分でした。

 今シーズンは、昨年度の全勝優勝という輝かしい成績のプレッシャーをうけはじまったわけですが、そのプレッシャーを払い除けることができませんでした。このプレッシャーを払い除けてこそ真の強いチームが出来て行くものということが身に染みて分かったシーズンであったと思います。しかしそうは言いながらも、三勝三敗でシーズンを終えることが出来たことは本当に良かったと思っています。


代替できない思い出

(1993/平成5年度)

小貫 達郎(1994/平成6年 卒)

学習院大学アメリカンフットボール部の創部五十年を祝うとともに、今日まで部の発展のためにご尽力されてきた諸先輩方、関係諸氏に心からお礼申し上げます。

前回、四十年史が編まれたのは、ちょうど我々が三年生のシーズンを終え、最終学年としてチーム作りを始めた時でした。今回この文章を寄せるにあたり、北グラウンドで汗を流していた頃を振り返ると、既に十年という歳月が経過していることに驚きと感慨を覚ます。

毎日毎日、フットボールの練習に明け暮れ過ごした四年間。かつての仲間たちとは、卒業し、それぞれの進路を歩む今となっては顔を合わせる機会こそ減ったものの、それでも会えばすぐにあの頃の時間に戻ってしまう。

互いの近況を伝え合うのもそこそこ、つらかった合宿での思い出話や、たまの休日に一緒に遊んだときのこと、試合や練習を終えてから酒を酌み交わしたこと。 失敗談や馬鹿話で盛りあがり、ひとしきり飲んで、目も据わり始めた頃でようやく四年生のシーズンの話になる。 最終学年として過ごした一年間、そしてその一試合一試合を振り返り始めると一転、みな一様に沈痛な面持ちだ。「あの時なぜ、このようなプレーをしてしまっ たのか」「このプレーを選択していれば」「もっともっとやれる事があったはずだ」という思いを、今なお持ちつづけているからだ。我々にとっては、あの最後 のシーズンは過去の美しい思い出と昇華していない。だから、十年前の記憶は鮮やかで、まだまだ生臭く、思い出すことが重いのだ。

前々年に史上初の二部リーグ優勝、一部入れ替え戦出場を果たした我々は、その時から試合出場していたメンバーも多く、二部優勝はもちろんの事、一部昇格を自分たちの至上命題としていた。部員の数も史上最高レベルの百人規模に膨れ上がり、部には上昇していく勢いが漲っていたように思う。その上でなお、「一部昇格を果たすには、一部リーグに入って戦っていくだけの力がなくてはいけない」「そのためには、一部リーグを戦うにふさわしい組織の整備をしなくてはいけない」。そう考え、コーチングスタッフを替え、練習方法を変え、新しいジェネラルズを作る意気込みで我々はシーズンに臨んだ。春には甲南大学に負けはしたものの、僅差の試合に手ごたえを得た。「春にやった中では関学の次に強かった」とは当時の甲南キャプテンの弁。因みに、この年甲南大学は圧倒的な強さで関西二部リーグを制し、入れ替え戦にも勝利。関西ビッグ3に次ぐ強豪として定着する足がかりとなった。

秋季リーグ戦の一番のライバルと目されていたのは、一部リーグから降格してきたばかりの明治学院大学。「若手ラインと経験豊富な四年生中心のバックス陣を擁す。主将鈴木を中心に粘り強い守備。春季戦好調。明治学院大を揺るがす存在だろう」(タッチダウン93年10月号)と下馬評にもあったが、しかし、ジェネラルズはその決戦に至る前、緒戦の防衛大学校戦で躓いてしまう。24対28の逆転負け。前半リードするものの、粘り強く反撃する防衛大に足元をすくわれた。いよいよ負けられなくなった明治学院大学戦。試合前には三日間のミニ合宿も行い必勝を期すが、またしても28対31と無念の逆転負け。終始試合をリードする展開も、前年を一部で戦った明学のプライドに、我々の思いは挫かれた。自信はあった。しかし勝ちきれなかった。結局このシーズン、ブロックの覇者となったのは防衛大だった。そしてジェネラルズには何かが足りなかった。ベストを尽くせば悔いが残らないとは思わない。我々はこのチームでどうしても結果が欲しかった。逆転された瞬間、試合終了のホイッスルが今でも夢に出てくると皆が口をそろえる。卒業して十年になり、それぞれが新しい世界で頭角をあらわしつつあるが、たとえどれだけ仕事で成功しようと、他の事がうまくいこうと、この悔しさを晴らすことはできないのだろう。挫折を味わったあのシーズンは、代替できない思い出なのだ。いつの日か、冬の甲子園で後輩たちが歓喜の涙に浸ったら、この思いは変わるのだろうか? 我々の無念は塗りつぶされるのだろうか? その瞬間に立ち会える事を心待ちにしている。

最後に四年間を共に戦った、同期のメンバーを紹介したい。

○主将・鈴木孝之君。同級生とは思えない落ち着きと、「何故」を繰り返す探究心でチームを引っ張った。興奮すると早口になって言っていることが聞き取れないのが玉に傷。DT。

○副将・神代泰男君。「大先生」「天皇」と称され、一年時から試合に出場してはタッチダウンを奪ったカリスマRB。練習で時折見せた暴君ぶりも、カリスマならではのご愛敬。

○赤井一之君。キッキングチームと飲み会チームを先導する、オールマイティーなRB。どちらでも人を生かすタイプで、的確なブロック、突っ込みに定評がある。

○落合良之君。我が道を行きすぎて一匹狼的な雰囲気を漂わせたが、心根は熱い。最終戦で見せた、タックラーに囲まれても足を留めないセカンドエフォートは感動的だった。WR。

○神田晃君。キャッチング、ブロッキングとも堅実で、チームの信頼篤いWRリーダー。よく似た顔の弟もジェネラルズでプレーし、兄弟の息のあった掛け合いを見せてくれた。

○北出義孝君。負傷によりプレーを離れたが、マネジメントに力を尽くした。学校の近くに住んでいたため、家はたびたびミーティングルーム兼溜まり場になった。

○木村成克君。普段は物静かだが、負けず嫌いで理屈っぽい面も。大きなけがにも見舞われたが、そのサイズとスピードを生かして相手をよくコントロールしたDT。

○倉増太郎君。高校での運動経験がないながらも、欠かせない戦力となった真面目な努力家。新入生の頃から体重が三十キロ増えたというエピソードからもそれが窺える。DE。

○小西哲夫君。時折目のさめるようなビッグプレーをする、意外性のあるTE。グラウンドの中でも外でも、チームの話題に上るエピソードにはこと欠かなかった。

○小林克也君。パワー、スピード、スキル共に優れたDB。と自負するだけあって、試合では常に一段高いパフォーマンスを見せ、対戦チームのスカウティングの的となっていた。

○徳丸正明君。下級生から怖がられるような真剣な眼差しでディフェンスを率いたLB。いったんグラウンドを離れると、プレー中の表情からは想像できないお茶目な姿を見せる。

○鳥居隆君。小柄ながら、当たるとやたらと痛いと評判だったDB。「番長」というあだ名の由来は最後まで誰も分からなかった。

○樋脇毅君。気遣いと面倒見のよさで、上級生から下級生まで仕切ることができた。プレーにもマネジメントにも献身的で、特に熱血リクルートには誰もが感嘆した。DB。

○丸山太郎君。名は体を表すとはまさにこのこと。丸く安定感のある体つきと意外な器用さで、QBやRBのプレーを生かしたOL。

○萬光徹君。コンタクトプレーに強く、けがにも強いRB、と言うよりむしろ痛みを感じない体なのかも。そのインパクトのあるキャラクター故に他校の間でも広く名の知れる存在。

○宮川久君。ミスが少なく機転が利き、QBが安心してターゲットにできるWR。童顔に似合わぬリアリストぶりは、プレーを離れた所でもたびたび発揮された。

○森田真人君。投げては六十ヤードのパスを通す強肩、走っては相手ディフェンスを引きずって進む走力を持った大型QB。男性的なプレーに似合わぬ繊細な面も持つ。

○以上十七名に加え、四年間練習のサポートやチームマネジメントに尽力し、苦楽を共に味わった内田伸子さん、寒川聡子さん、松永華子さんも我々の大切な仲間である。


悔しさしか残っていないが

(1994/平成6年度)

望月 重成(1995/平成7年 卒)

創部50周年を迎えるにあたりそれぞれの代の思い出を書いて欲しい、と言われ、思い返してみると嬉しかった思い出よりも悔しい思いをしたことの方が圧倒的に強くよみがえってくる。うちの代の大半が3年でレギュラーを獲ってから、本当に勝ちたい試合に勝ったという覚えが無いのが最大の原因だろうが、やはり思い出とはそういうものなのであろう。

我々がGeneralsに在籍した4年間は,恐らく客観的に見てGenerals最盛期だったように思う。1年時には2部優勝を果たし1部との入れ替え戦に出場し、部員も100名余りいた。4年間戦った2部リーグも4ブロックあり、部員が100名近くいる大学もまれではなかった。今思えば、そんな環境で4年間フットボールに打ち込めたことを幸せに思う。

前置きはこれくらいにして、うちの代の思い出というと、やはり4年時の秋のリーグ戦であろう。1学年上の有能なOffence Backs陣を全て卒業で失い、不安を抱えたままのスタートであった。案の定、春の練習試合・甲南戦では結果を全く出せず、不安を抱えたまま春のシーズンを終えた。それでも夏の練習・合宿では実りのある時間を過ごし、いよいよ秋を迎える。

開幕戦の東京国際、続く立正、山梨大と開幕3連勝を飾り、最高の滑り出しを飾った。そしていよいよ迎えるは2部Bブロックの大本命、帝京大学である。

 オフェンス・ディフェンスともに超大型ラインを擁し、身体能力の高いバックス陣を豊富に取り揃え、かなりの手ごわい相手である。1994年10月29日、小雨が降りしきる夜の川崎球場。その週にモチベーションを上げるためだけに泊り込みの合宿を行い、気合は十分。帝京のキックオフで試合開始。最初のシリーズ、学習院はタッチダウンこそ奪えなかったが、ラン・パスが思った以上に出て、なかなかの滑り出し。しかしながら、巨漢OLと極めて運動能力の高いバックスに翻弄され、帝京は最初のシリーズであっさりT.Dを奪う。やはり、今までの相手とは違う、と実感させられるが、学習院も次のシリーズですぐさま反撃、T.Dを奪い返し、同点。

 その後、帝京に1本とられ、2本-1本となるが、その後は一進一退を繰り返し、緊迫した攻防が続き、14-7のまま第4Qへ。しかし、第4Qに入り学習院は痛恨のミスを重ねてしまう。まずは、自陣5 yrd付近で痛恨のファンブル、それを帝京にリカバーされ、帝京Offenceに1 PlayでT.D.を奪わ れる。

 その後のKick off Returnで学習院が90 yrdリターンをした直後、Offenceが逆に90 yrdのインターセプトリターンT.D.を奪われ万事休す。結局その後の2試合を1勝1敗とし、通算4勝2敗、2部Bブロック3位という不本意な成績でヘルメットを脱ぐことになった。

しかしながら、Generalsの4年間で学んだことは実に多い。やはり練習でやっている以上のことは試合では出ないし、全員が本当に勝ちたいという信念を持って日々練習に取り組まないと、優勝なんて夢のまた夢。主将・副将ら幹部がリーダシップをとって、各学年、各ユニットの役割を明確にし、明確な目標を設定し、それを部員全員に浸透させる。社会に出てみると、社会人として生活する上で必要な基礎を知らず知らずのうちに身に付けている。

 そして何よりも尊いのが、一生涯の友・先輩・後輩を持つことができたことであろう。特に4年間を共に過ごした同期は特別の存在である。それぞれ悔しさを胸に社会へと出て行ったわけだが、今だに、忘年会・新年会・ゴルフコンペ・BBQなどなど、ことある毎に集まってはお互い刺激しあっている。よくありがちな思い出話に浸るわけでもなく、前向きな話が多く、それぞれの分野で活躍する姿を見ると、本当に刺激になる。何のめぐり合わせか、同じ年に同じ大学の同じアメフト部に入部し、ともに4年間を過ごしたこの縁というものを大切にし、これからもお互いに助け合い、切磋琢磨して行きたいと思っている。

平成7年卒 Generals同期

主将: 木原 壮一郎(OL)
副将: 吉川 久知(OL)
  国府田 宗弘(DL)
  望月 重成(WR)
QB: 平林 成夫
OL: 小野 信之
WR: 東 嗣了
  松原 正樹
  矢野 正東
RB: 一桝 秀晃
  笠井 淳史
  野口 太一郎
TE: 高橋 宏和
DB: 斎藤 栄一
  広沢 康雄
  堀田 靖
LB: 岡田 正
  菅原 淑男
  濱田 大輔
MGR: 佐藤 淳子
  望月 未英
  渡辺 恵美

まさかのエリアリーグ降格

(1995/平成7年度)

下田 潤(1996/平成8年 卒)

 この度、創部50周年記念の寄稿依頼を受け、当時の記憶を呼び覚ますべく(あまり呼び覚ましたくないという気持ちもありましたが…)、試合のビデオを観たりしながら、筆をとっている次第であります。私は4年時に主将を務めさせていただいたのですが、当時のジェネラルズは2部リーグ中堅に位置しており、毎年目標は「2部優勝! 1部昇格!」でした。

 しかし私が4年時はいつもと若干状況が違いまして、それは翌年からブロック編成が変わることとなり、具体的には2部リーグが4ブロックから2ブロックに減り、その下にエリアリーグなるもの(要は3部)が新設されることにより、当時の2部リーグに所属のチームの内、各々のブロック(1ブロックにつき7チーム)の下位3チームが自動的に翌年からエリアリーグへ降格となるというものでした。

 最初それを聞かされた時は、我々の目標はあくまで1部昇格であるので、エリア落ちの心配など眼中にないという思いでしたが、それでも心のどこかにエリア落ちへの危機感というものが無かったとは言えないというのが正直な気持ちでした。

 かかる状況下、春の甲南戦、四大戦などで結果はさておき積極的に下級生を使ったりしていく中でチーム力は劇的にまではいかないまでも、徐々に向上を見せておりました。特に春の最終戦の明治学院戦は、格上相手に結果としては負けましたが、内容的は攻守共に互角以上の戦いができ、秋に向けてかなり自信を持てる試合内容でした。

 そして夏の合宿等厳しい練習を怪我人を出しながらも何とか乗り切り、それなりの戦力で秋のシーズン本番を迎えました。前年の結果から、最初の3試合は前年度下位校との試合、そして4戦目が優勝候補筆頭の桜美林大というスケジュールだったので、まずは最初の3戦を取りこぼさずに全勝で桜美林との大一番を迎えるという筋書きを頭の中でイメージしておりました。

 しかし、いざ蓋を開けてみると初戦の武蔵工業大、2戦目の埼玉大と立て続けに僅差で敗れ、当初の目論見は脆くも崩れ去り、逆に一気にエリア落ちという最悪のシナリオが現実味を帯びてきました。3戦目の立正大には格下ということもあり何とか勝利しましたが、次の大一番である桜美林大戦に向けチームのムードは今ひとつでした。そのようなムードでの桜美林との試合は、案の定ほとんど見せ場を作ることなく完敗を喫し、個人的にもチームとしても非常に悔いの残る試合でありました。しかしその後の残り2試合(成蹊大及び城西大戦)は、ある意味開き直った感じで純粋に勝利への欲求の下、チームとして攻守共に一つにまとまり、ベストゲームと言える試合ができました。しかし終わりよければ全て良しとは行かず、結果は3勝3敗でしたが、直接対決の結果により5位となり、エリア落ちという最悪の結末を迎えることになり、主将として非常に責任を感じる結果となりました。ただ私自身の率直な気持ちとしては、最後の2戦は本当にチームとしてよくまとまり、最終戦が終わった時はこのチームメートと一緒にプレーできたことを心の底から誇りに感じました。一方で、このような素晴らしいチームを、優勝はおろか2部残留へも導く事が出来なかった自分自身の力不足を悔みもしましたが…。

 また、高川監督、宮田ヘッドコーチを始めとしたコーチ陣のご苦労に報いることができなかったこと、そして多大な応援を頂いたOB・OGの方々の期待に応えることができなかったことが何より申し訳なかったです。「最初の2試合何故勝利できなかったか?」 今でもふと考える瞬間があります。 決して力負けではなかったが、何かが我々が足りなくて相手が勝っていたのでしょう。勝負は時の運とも言いますが、決して運だけの問題ではなかったと思います。勝利への貪欲さ・執念、準備(スカウティング等)、日頃の練習からのイメージトレーニング等さまざまな要素が考えられますが、そういったところの「もう一歩の努力」を怠っていなければ、結果は違っていたかもしれないという思いがあります。「もう一歩の努力」というのはその時はなかなか分からず、大抵は後になって思うものですが…。時が過ぎ、数年間ジェネラルズはエリアリーグからあと一歩のところで抜け出せずにいましたが、昨年見事に2部昇格を果たし、今年は春の甲南戦16年振りの勝利と非常にうれしいニュースが立て続けに入ってきて、非常に楽しみに且つ頼もしく見ております。

 私自身は現在仕事の都合上神戸に居る為、なかなか試合や練習を見に行けないですが、是非とも後輩達にはもっともっと上を目指して、いつの日か甲子園ボウルで学習院ジェネラルズの後輩達の雄姿を生で見たいと切に願いまして、筆を置かして頂きたいと思います。

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